〔かぐらむら〕

2017.06.13 Tuesday

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    ●今日、〔かぐらむら〕という、面白いサイトに出合った。その中で、鈴木重嶺の『雅言解』について触れているので、紹介する。
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    〔かぐらむら〕

    白銀公園を遺した人・渡部温物語
    日本女子大名誉教授 片桐芳雄

    第九回 落ち着く先は、神楽坂

    「旧幕臣悉く各所に流離転滞し、其の居宅皆変じて草木の藪となり、諸侯大中小の邸宅も荒廃を極め」と語られているように(『東京百年史』第二巻)、幕臣たちが去った東京は荒廃した。家屋を売ろうにも買手がつかず、湯屋の焚き物としてさえ買人のないありさま、とも言われる(同上)。
    一八七一(明治四)年夏、そうした東京に、渡部温は戻って来た。住んだところは「東京府管下第三大区五小区新小川町一丁目弐番地」、神田川に今も架かる隆慶橋のたもとで、幕臣として開成所に勤務したときに住んだ軽子坂のすぐ近くであった。
    そして、あまり気の進まない宮仕えに終止符をうった温が、終の棲家と定めた場所が、御殿山と言われた高台の地、現在の白銀公園のある牛込白銀町二七番地(のち二九番地に表示変更)、水戸藩・附家老中山家の屋敷跡であった。
    一八八三(明治一六)年陸軍省測量の東京市街地図には「渡部邸」がはっきり見える。神楽坂通りの側は、通寺町の名のとおり、寺がふさいでいる。白銀公園から神楽坂通りに直交する現在の路は、これらの寺が区画整理のため他に移転して、明治末年にできた。この路が「成金横丁」などと称されるようになるのは、「成金」が流行語になった大正期以後のこと、神楽坂が花街として繁栄するのも日清戦争以後である(『新宿区史』)。
    要するに渡部温が終の棲家と定めた場所は、今にその名が残る東側の瓢箪坂を登りつめた先にある閑静な場所であった。温はここで、これまでとは異なるもう一つの人生を生きる決意をしたのではなかろうか。
    彼は約三千四百余坪のうち、東南に面したおよそ三分の一を自宅用に使い(現在の白銀公園の場所)、残る二千三百坪に十数軒の家作を建てて、生活の基盤を固めた。


    明治16年陸軍省測量地図上の渡部邸
    明治政府を依願退職して牛込白銀町に落ち着いた温が、まず取り組んだのは、出版活動であった。退職直後に『勧善喩道傳』、翌七八年秋には父親、渡部白鴎纂輯の『曲亭馬琴戯作序文集』を刊行した。そして七九年三月には意外にも、「米国骨相学大博士発烏羅著/日本渡部温閲・橋爪貫一抄訳」の『男女之義務』という本を出版した。「発烏羅」とは、骨相学者の米人O・S・ファウラー、橋爪貫一は、明治初期、多方面に膨大な著作を残した旧幕臣。この本は明治期に流行った性科学書の一つで、内容は大まじめだが、温としてはやや忸怩たるものがあったか、出版人は父親白鴎の名になっている。

    七九年四月に『通俗伊蘇普物語』の中国語訳『北京官話・伊蘇普喩言』を刊行したあと、さらに温は八一年一〇月、鈴木重嶺纂輯『雅言解』全四冊を出版した。鈴木重嶺は佐渡奉行も務めた旧幕臣の高官で国学者にして有名歌人、一八九八(明治三一)年に八五歳で没するが、主宰した歌会には樋口一葉も出席して指導を受けたことがあると言う。『雅言解』は歌詠みに必要な古今の雅言を集めて、意味と用例を示した辞書で、現在刊行中の大空社版『明治期国語辞書大系』の一冊にも収められている。

    それにしてもこの時期の温の仕事として特筆すべきは、やはり『標註・訂正康煕字典』の刊行であろう。
    そもそも『康煕字典』は清の康熙帝の時代に、多数の編修官を動員し、勅命により、六年の歳月をかけて一七一六年に完成した中国史上最大の漢字字典である。収録字数は約五万字、全四二巻。満族王朝の清は、文化的優位にある漢族に対して、自らの威信を示すために、中国文化の精髄、漢文字を支配する膨大な字典編纂を企図した、とされる。しかし重厚長大な権威主義は、とかく遺漏を生む。『康煕字典』は誤りの多さでも知られるのである。
    そもそも満族王朝の大事業に動員された漢族学者の士気の低さも指摘される。無謬であるはずの勅撰字典とはいえ、当の清朝も放っておけず、一八二七年には、ついに勅命により訂正を命じ、王引之が二五八八箇条の訂正をおこなった(『字典考證』)。
    しかし温の仕事はこれに倍するものである。中村正直の序文によると、温は「極力、古今書籍を網羅し、或は諸人に借り、或は自ら各所の官庫に往き、必ずその引用原書を得て相校対し」、七九年二月から、八五年九月に完成するまで、「七年の間、人事を問わず、寒暑に輟めず」これに専念したのであった。その結果、『康煕字典』の引用原書に当たって字句の異同を指摘した箇所一九三〇余条、誤りの訂正四〇〇〇条に及び、温はこれを字典上部の欄外に「標註」として掲出した。例えば、「司馬承禎」は旧作では「蓮廚世箸、「下」とあるのは宋本では「丁」、だとか、まことに気の遠くなるような仕事である。
    七九年三月刊行の『男女之義務』巻末に、『明治新鐫・鼇頭康煕字典』の同年一二月刊行予告が載っている(「鼇頭」は標註の意)。二月に開始した『康煕字典』の訂正作業は、一二月には刊行できると思ったが、訂正箇所の意外な多さに七年もの歳月が要した、ということであろう。一般の日本人が読み下せるように、字典全文に返り点や送り仮名や振り仮名を付し、原稿が完成したのは八五年一二月、全一七冊の和綴じ本として出版したのが八七年四月であった。
    温の仕事で、現在でも賞味期限が続いているのは、この仕事ではなかろうか。学問の世界で百年以上もの間、その研究成果が生き続けるとは、大変なことである。
    『標註・訂正康煕字典』(戸塚圭介氏所蔵)
    講談社は一九七七年、創業七〇周年に向けて、薄いインディアン紙で一巻本として復刻出版し、これは多くの公共図書館や大学図書館に所蔵されている。台湾ではそれに先立ち一九六五年に、藝文印書館が『校正康煕字典』と題し、当然のことながら返り点や送り仮名を削除して、二巻本で出版した。そして中国本土では一九九六年に上海古籍出版社が『王引之校改本康煕字典』を出版し、その巻末付録に渡部温『康煕字典考異正誤』を掲載した。これは、「標註」のみを、一八八七年九月に、別途まとめて出版したものである。
    日本女子大学の三田明弘教授のご教示によると、渡部温の仕事は、これに先立つ王引之の仕事をよく知らぬまま、独自に進められた。それゆえに康煕字典の活用のためには、王引之と温の仕事の双方を参照する必要があるのである。
    そもそも温のこのような漢学の深い学識は、いったいどこから来るのか、英学者としての温の事績を追ってきた私たちは戸惑わざるを得ない。ネットなどには漢学者の家に生まれたとか、もともと漢学者、などと書いているものがあるが、その根拠は示されていない。
    温は、じつは、誰かにやらせたのではないか、とも考えてみたが、こんな面倒な仕事を他人にやらせる理由もない。温は、新築した牛込白銀町の自宅で、半年余りで終えるつもりが大幅に伸びて七年間もかかったこの仕事に、悠々自適で楽しみながら、取り組んだのではなかろうか。
    そしてそれを可能とする漢学の知識は、おおかたの幕臣知識人たちが持っていたもの、なのではないか。幕臣の教養、恐るべし、なのである。
    思えば、温の出版活動を支えたのはすべて幕臣たちとのつながりであった。温は、神楽坂で、突然に滅んだ徳川幕府の、生き残った幕臣たちとの交流を、心ゆくまで楽しんだのではなかったか。

    かたぎり・よしお
    日本教育史研究者。愛知教育大学教授を経て日本女子大学人間社会学部教授。著書に『自由民権期教育史研究』等。渡部温の曾孫。

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    20,雅言解
    半紙本,版本,4巻4冊,縦227ミリ×横152ミリ。空色布目原表紙。
    左肩に子持枠原題簽「雅言解一(二,四)」巻三は剥落の跡のみ。巻一前見返し単辺の枠内に「雅言解全四冊/鈴木重嶺纂輯/渡部氏蔵板」。序題=・なし,その末に「明治十二年四月/正二位季知」,・「雅言解序」その末に「近藤芳梼」,・なし,その末に「明治十二年三月鈴木重嶺識」。凡例の末に「明治十二年三月翠園主人誌」。内題=「雅言解巻之一(〜四)/東京鈴木重嶺纂」。尾題=「雅言解巻之一終」「雅言解巻二(〜四)終」。匡郭=四周単辺。柱刻=「序(丁付)」「凡例(丁付)」「い(ろ・は…す)(丁付)」。巻一=43丁( 内,序6丁,凡例2丁),巻二=43丁,巻三=37丁,巻四=46丁(他に広告1丁)。上欄に注を付す。刊記=「明治十二年四月十日/版権免許/定価金壱円/編纂人東京府士族/鈴木重嶺/東京麹町区飯田町五丁目/二十一番地/出版人東京府士族/渡部温/東京牛込区牛込白銀町/二十九番地/発兌書肆東京府平民/稲田佐兵衛/東京日本橋区/日本橋通二丁目二十番地」。最終丁に次の6点の広告あり,渡部温訳述=通俗伊蘇普物語,丁題良著=渡部温訓点=勧善喩道伝、中田敬義訳=北京官話伊蘇普喩言,新版曲亭馬琴作序文集,雅言解。

    昭和女子大学図書館「翠園文庫」蔵


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