江戸初期の「うきよ」――『可笑記』と『浮世物語』

2017.07.24 Monday

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    ●内藤正人氏は『うき世と浮世絵』第3章の中で、次の如く述べておられる。
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    3 「浮世絵」誕生の軌跡

    江戸初期の「うきよ」――『可笑記』と『浮世物語』

     これまでに、わが国における「うき世」の語のおもな用例を点検し、その意味するところの時代ごとの変遷や、ときに行きつ戻りつしながらも、しだいに新たな「浮世」へと導かれていく経緯を辿ってみた。「うき世」の語が平安期から鎌倉・室町にあっては、和製の「憂うべき世」の意が強かったこと、またその多くが仏教に説かれる無常観を中心に据えるものであったことなども、その歴史的経緯からは論じることが可能であろう。またこれらを概観することによって、そもそも「うき世」の語の定義は複雑でかつ多岐にわたっており、性急に単純化しすぎて無理やり型に押し込めることも難しいことがわかる。
     ただし、時代がいよいよ近世の段階を迎え、桃山期を経て本格的な江戸時代へと入ると、新しい浮世観はいよいよ定着をみることになり、時代の思潮ともあいまってその輪郭線をくっきりと浮かび上がらせるようになる。
     ここからは、近世江戸期の新しい浮世観について、やや詳しくみていくことにしよう。

     寛永十九(一六四二)年季秋(九月)に刊行された如儡子の『可笑記』は、随筆風の仮名草子、すなわち、江戸初期に仮名交じりで書き著された小説である。御伽草子の系譜を引くこの小説は当然庶民文学であるものの、物語のほかにも随筆、評論などを含み興味深い形態を示している。作者の如儡子は斎藤親盛という山形藩主最上家の元家臣で、浪人経験もある彼が現世を冷めた目でとらえる感覚が、文章全体に漂っているのが注目される。
     東北の酒田出身で、のちに江戸暮らしも経験した作者が浪人中に書いた文章、ということでも関心をそそるが、知識階級である武士がしたためた本書には、混乱する江戸初期の世相と揺れ動く筆者の思想も見え隠れしている。そうした性格付けの可能な本書だが、そこには江戸初期の「浮世」概念の定着ぶりがうかがえる。

     「可笑記 愚序
     「蒙窃愚性を念じ、妄体をくわんずれば、あきじりめくら、おつしもむもうのごとし、其の磧礫にならつて、玉渕をうかゞふ事なければ、驪竜の蟠ところをしらず、たゝうき世の波にたゝよふ、一瓢のうきにういたる心にまかせ、よしあし難波入江のもしほ草、かきあつへたる海士のすさみ、猿猴が月を望ミ、ゑのこが塊を追に似たり、まことに傍観の巻爾掌をあハせん事必せり、かるがゆへに此草案をなづけて、可笑記としかいふ」
                    (『可笑記大成』笠間書院、一九七四年)

     憂世でもあり、また当世でもある実際の現世をあらわすこの「うき世」観は、江戸草創期の寛永期の重要な用例でもあるが、これが次に紹介する都の僧の著述で、さらに大きく展開することになる。
     寛文前期に刊行された仮名草子『浮世物語』の序文には、著者である浅井了意が草した有名な章句がある。ちなみに、浅井了意(慶長十七(一六一二)年―元禄四(一六九一)年)は都出身の浄土真宗の僧で、仮名草子の作者としてもよく知られた人物である。
     浮世房なる主人公の一代記を通じて、その当時の享楽的な社会風俗を描写するこの小説の序には、以下のようにある。

      一 浮世といふ事
     今はむかし、国風の哥に、いな物ぢや、こゝろはわれがものなれど、まゝにならぬはと、たかきもいやしきも、おとこも女も、老たるもわかきも、皆うたひ侍べる。思ふ事かなはねばこそ、うき世なれといふ哥も侍べり、よろづにつけて、こゝろにかなはず、まゝにならねばこそ、浮世とはいふめれ。沓をへだてゝ、跟を掻くとかや、痒きところに、手のとゞかぬごとく、あたるやうにして、ゆきたらず、沈気なものにて、我ながら身も心もわかまゝにならで、いな物なり。まして世の中の事、ひとつもわか気にかなふことなし。さればこそうき世なれといへば、いや、その義理ではない。世にすめば、なにはにつけて、よしあしを見きく事、みなおもしろく、一寸さきは闇なり。なんの糸瓜の皮、思ひをきは、腹の病、当座〳〵にやらして、月雪花紅葉にうちむかひ、哥をうたひ酒のみ、浮にういてなぐさみ、手まへのすり切も苦にならず、しづみいらぬこゝろだての、水に流るゝ瓢箪のことくなる、これを浮世と名づくなりといへるを、それ者は聞て、誠にそれ〳〵とかんじけり。」
     (寛文五(一六六五)年ごろ刊(『浅井了意全集』仮名草子編一、岩田書院、二〇〇一年))

     ここに説かれるのは、現実的であり、かつ現世謳歌的な上方の町人たちが主導的立場を担いながら、浮世そのものを肯定する、という思潮である。作者である浅井了意は、あの『可笑記』を踏まえた『可笑記評判』という著述も遺しており、このため前述した如儡子の浮世観を受け継いだ可能性も決して少なくはないと思われる。
     しかも、小説の表題に「浮世」の語を登場させるこの『浮世物語』が寛文前期ごろに書かれたことは、ひときわ重い意味をもつ。おそらくこの書名の時代前後から「浮世」観が近世的に再定義され、浮世の語がいよいよ定立化の方向へ歩んでいくことになるのである。そしてそれがひいては浮世絵、浮世草子など多くの用語誕生にも繋がっていく、とも考えられるからである。
     考えてみれば、慶長八(一六〇三)年から出雲の阿国が風流踊、ややこ踊などを発展させて歌舞伎踊を創始し、その興行を大々的におこなったのは、北野社や四条近辺であった。つまり、都こそが阿国歌舞伎や、それを模倣した遊女歌舞伎と呼ばれる初期歌舞伎の故郷であり、都びとたちの圧倒的な支持がその成長を見守ったのである。歌舞伎はその後遊女歌舞伎から、若衆歌舞伎、そして野郎歌舞伎へと変貌を遂げ男性のみで演じられる芝居となり、まさに若衆、浪人たちで溢れる男性都市に相応しい荒事芸として、江戸の地で江戸歌舞伎全盛の礎を築きあげていく。今日では、ともすれば江戸文化の代表とさえみられるこの歌舞伎も元来都生まれであったことを思えば、これまでみてきた浮世観、あるいは浮世絵も、そもそもは京・上方の文化が産み落とした卵があって、後年それが江戸の地で孵化、成長を遂げて全盛を迎えたことを、今更ながらもしっかりと追認しておく必要があるのである。
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    ●「憂世」→「浮世」は、「中世」→「近世」と、そのように把握して、これまで過ごしてきた。私は、そこに惹かれて近世初期を専攻した。仏教から儒教へ、という図式も同様である。それは、大筋では誤りではないにしても、その学問的裏付けは、十分ではなかった。内藤正人氏は、それを実証的に検証してくれた。
    ●近世初期の、現世肯定、人間重視の近世的思潮の潮流の中で、如儡子の『可笑記』も、了意の『浮世物語』も生れた。内藤氏が使用されたテキストは、いずれも、私の編著であり、校訂したものである。これもこれに合わせて、とても嬉しい。研究していて、よかった、そのよう思う。

    ■『可笑記大成』笠間書院


    ■『浅井了意全集』仮名草子編一、岩田書院