鈴木重嶺 墓所の案内板

2016.04.12 Tuesday

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    ●久し振りに、「鈴木重嶺」を検索したら、ウィキペディアの「鈴木重嶺」
    の項に、鈴木重嶺のお墓の案内板の写真が入っていた。この案内板は、
    私が建立したものである。もちろん、文章も私が書いたものである。
    歴史は、このようにして、定着してゆくのであろう。
    ●以下は、昭和女子大学の私のサイトの日録である。

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    [4] 鈴木重嶺の墓所の案内板  平成17年5月29日
    ●平成16年6月、大久保の重嶺の菩提寺・全龍寺に、次のような案内板を設置しました。
    法政大学名誉教授・村上直先生、佐渡市教育委員会の御配慮を頂いた。
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      最後の佐渡奉行・歌人 鈴木重嶺・翠園の墓

     鈴木家の祖・重経は北条氏康に仕えていましたが、二代・重元は徳川家康に召し出され、武州豊島郡大久保村に四千坪の領地を拝領し、以後、代々徳川家に仕えました。重元寛永十三年(一六三六)十月八日に没し大久保村の全龍寺に葬られ。鈴木家は代々全龍寺を菩提寺としています。
     鈴木重嶺は、文化十一年(一八一四)、幕臣、小幡有則の次男として江戸駿河台で生まれましたが、鈴木家十代・重親の養子となって十一代を継ぎました。
     二十歳で広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定奉行、鎗奉行を勤め、慶応元年(一八六五)佐渡奉行となりました。明治維新後、佐渡相川県知事等を歴任しましたが、明治九年(一八七六)官を辞し、以後は和歌の道に励みました。
     鈴木重嶺は若い頃から、和歌や国学を村山素行・伊庭秀賢に学び、佐渡奉行在任中も相川を中心とする佐渡の人々の和歌の指導にあたり、多くの門弟を育てました。東京に戻ってからは、鶯蛙吟社を組織し、短歌雑誌『詞林』を主宰しました。明治歌壇旧派の代表歌人として活躍し、当時としては若い歌人、佐佐木信綱とともに活動して、『詞林』は後に佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。また、当時の歌会には、樋口一葉も同席して、鈴木重嶺の指導を受けています。

     鈴木重嶺は勝海舟とも深い交流があり、『海舟日記』には、その様子が記されています。明治三十一年(一八九八)十一月二十六日、八十五歳の生涯を閉じましたが、『葬儀記録』には、毛利元徳・近衛忠園熈・正親町実徳・久我建通・蜂須賀茂韻・前田利嗣・勝安房等々、錚々たる人々をはじめ、萩野由之・黒川真頼・井上頼国め中島歌子・佐佐木信綱等々、全国の歌人など一〇六八名の氏名が記載されています。

      平成十六年六月二十六日

                         鈴木重嶺 顕彰会
                         佐渡市教育委員会

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    ●全龍寺は、JR新大久保駅下車、徒歩5分の所です。是非いちど、訪ねて下さい。

    ■鈴木重嶺 案内板 
     ウィキペディア より