文学作品の評価

2016.10.17 Monday

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    ●私は、昭和47年(1972)11月、鹿島則文の桜山文庫の中の、
    桐箱入りの12冊の写本に出会った。書名も著者名も無い。調べてみると、
    岩波書店の『国書総目録』には、
     
    天保日記 てんぽうにっき 一二冊 〔著〕井筒隆女 〔写〕桜山

    とあり、原本を見ると、何月何日、と日付があって、挿絵もあり、
    和歌も挿入されている。この著作は、〔日記〕であることは、ほぼ間違い
    が無い。しかし、〔日記文学〕であるか否か、それが問題である。私は、
    千葉の団地の一室で、この著作を読んでみた。そうして、次第に、
    その内容に惹かれていった。
    ●これは、近世の日記文学として紹介する必要がある、そのように決断
    するまでには、様々な障壁があった。それまで読んだ日記文学の諸作品と
    比較してみた。そうして、資格あり、と断定したのである。その結果、
    神田の出版社、錦正社の依頼を引き受けることにしたのである。
    ●昭和49年(1974)、日本文学研究会の例会で、初めて、この
    『日記』とその著者について、口頭発表した。例会には、重友毅先生を
    はじめ、常任委員の方々が15名参加しておられた。この席上で、初めて
    『日記』の具体的な本文が、公表されたのである。参加者の方々の反応・
    評価は、まちまちであった。ただ、重友先生は、「これは、掘出し物ですね」
    と申された。このお言葉は、私の励みとなった。

    ●昭和53年、上巻が勉誠社から発行された。私は、この本の付記に、

    ……出合いから刊行まで五年の年月を費やした。これは新しい作品を送り出すために決して長いものではないと思う。……

    と記した。これが、この時点で示した、私のこの『日記』への評価の精一杯の表現だったのである。著作物は、誰でも書ける。しかし、〔作品〕は、作者にしか書けないのである。
    ●昭和56年(1981)、日記は、上・中・下、と全3巻完結したが、世間の評価は冷たかった。〔日記文学〕とは、なかなか認めてくれない。
    ●全3巻完結の時、庄田家の御子孫の方が、御苦労様と、数十万円を下さった。そのお金で、美味しい物を食べたり、パソコンなどを買っては申し訳ないと、『日記』全3巻を購入して、有力な評論家や研究者に寄贈した。30名以上だと思う。が、しかし、全員、ナシのツブテだった。一言発すれば、自分の批評力が試される。そんなために、大部で難しい本は読めない、のであろう。ああ、淋しい、我が文芸界の実状。

    ●そのような状態の中で、この日記を高く評価して下さったのは、
     新田孝子氏、田中伸氏、江本裕氏、秋山虔氏、堤精二氏、野口武彦氏、ドナルド・キーン氏、藤田覚氏、大口勇次郎氏、関民子氏、等々であった。しかし、私自身は、この作品の評価に関しては、発言を控えてきた。
    ●平成6年(1994)、昭和女子大学、女性文化研究所の塩谷千恵子氏の要請で、この『井関隆子日記』についての、私の評価に関して、初めて公表した。
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    井関隆子の人と文学――近世後期・一旗本女性の生涯――

              報告者 国語国文学科教授  深沢秋男氏

    昭和女子大学女性文化研究所、第5回研究会(通算49回)
    日時=1994年12月6日(火) 15:00−16:30
    会場=光葉庵

     近世初期の仮名草子がご専門の深沢氏は、あるきっかけから、個人蔵書に眠っていた、近世後期の一旗本女性の書いた日記を発見した。以来、氏はこの日記に取り組み、綿密な校訂を行うとともに、著者の名前にちなんで『井関隆子日記』と命名し、全三巻本として公刊した。この仕事に費やした歳月を、氏は「十年間の寄り道」と表現しておられる。
     こうして世に送り出された『日記』は、ドナルド・キーン氏によって、朝日新聞紙上で高く評価され、文学作品として、また最近では女性史の史料としても注目を浴びている。 隆子に関する研究が盛んになる中、資料の発見者である深沢氏は、これまで『日記』の内容や評価についての発言は控えてこられたのであるが、このたび、当研究所の研究会において、発見者自らが初めて語るというかたちでお話しいただいた。テーマは「井関隆子の人と文学」。『日記』だけにとどまらず、他の作品をも含めた著者の全体像を探る意味で設定されている。
     氏のご報告は、 岼羇慘柑劼寮験供廰◆岼羇慘柑劼諒験悄廰「作品に見る隆子像」の3部で構成され、,任楼貪抉鐫未壊れた後、裕福な旗本井関親興の後妻となり、夫の死後は義子や孫夫婦にかしずかれ、晩年5年間に『日記』を書いて60歳で没した生涯を、史料を基に実証的に説明し、△任蓮愼記』以外の作品、『さくら雄が物語』『神代のいましめ』という隆子作の2つの物語が紹介された。
     は、いよいよ中核部分の『日記』についてである。当日は、本学図書館に所蔵されている『日記』の原本全12冊を借用し、出席者一同に回覧された。雅文体の見事な筆跡は、ほとんど書き間違いがなく、ミスは、全61万字中わずか10数カ所にとどまるという。また細密画を思わせるその挿し絵からは、洗練の極に達したという、化政期江戸文化の名残が感じられた。『日記』の内容は、身辺の雑事ではなく、当時の社会情勢や風俗が記されて史料価値が高いとともに、これらに対する隆子の見解がはっきりと示されて、全体が著者の思想の披瀝となっている。女性には、稀な日記である。
     深沢氏は、本文を抜粋して実際に読み上げながら、部分毎に他の研究者の解釈を紹介した後、氏ご自身の見解を提出した。中でも印象的だったのは、「天保十一年二月十二日」の項である。氏はここで、隆子は日記がいずれ公開されるだろうことを予測し、読者を意識して書いていると明言された。著者の秘めた願いを見抜いたればこそ、深沢氏は十年の歳月をこの仕事にかけたのである。事実、『日記』は隆子の言う500年を待つことなく、140年後に公刊された。
     最後に氏は、井関隆子像を次の5点に纏めた。“禀樟鎖世里△觸性であること。これは隆子の資質であり、拠り所となっているのは、豊かな学識と鋭い感性である。古典に暁通していたその学識は、一説には夫の死後勉強を始めたというが、そんな一朝一タに出てきたものではなく、若い頃からの蓄積があったはずである。△靴辰りした歴史観、人間観を持っている。従って、生きた人間が把握されている。『日記』は感傷を排除して書かれており、隆子は理知的な性格であったと思われるが、その底流には激しいものを秘めていたであろう。ぜ分の考えを素直に表現している。ァ愼記』の話題の広さから見て、旺盛な好奇心を持っていた。以上、井関隆子を知る事、発見者が一番深いと思われる結びであった。 
     質疑応答では、女は無知文盲なるが好しとされていた時代、隆子が政治や社会に関心をを持ち、自分の意見を表明出来たのは何故かという質問がなされた。深沢氏は、後妻とはいえ「母」の地位の高さであるとして、井関家の当主である子や孫が、江戸城から帰宅すると、母上にその日の出来事を報告する様を描写して見せた。隆子の学識は尊敬されていたのである。また、酒好きだったことや、妙な探求心を発揮する、隆子のユーモラスな一面も紹介された。
    隆子はその晩年の日々を、『日記』を書く事に没頭した。『日記』の最後の日付けから20日後、隆子はこの世を去った。いかに死ぬかは、人がいかに生きたかを問われる最後の機会という。後世に残る作品に費やした隆子の豊かな晩年は、われわれに生きる勇気を与えてくれる。実り多い研究会であった。 (文責・塩谷千恵子)
    (『昭和女子大学女性文化研究所 ニューズレター』癸横亜1995年6月25日発行)
                         
    ●平成11年(1999)、大学大学入試センター試験の古典の本試験に出題された。この時は、私は大変、感激した。この作品の〔文章〕が、認知され、評価されたからである。また、これは、後でわかった事であるが、この1999年の日本史の追試験にも『井関隆子日記』から出題されていた。優れた文章とは、優れた内容である、ということでもある。

    ●ここに、12冊の写本がある。まだ、誰も見ていない。江戸時代末期の日記である。しかし、日記なのか、日記文学なのか、価値があるのか、無いのか、全く白紙である。このような時、文学の研究者は、どのように対応すべきか。黙殺することも出来る。しかし、その著作の中に立入り、分析し、評価することも出来る。
    ●私は、当時、仮名草子研究を目指し、野田寿雄先生の仮名草子研究会にも参加し、次のような本を出していた。

    ★『浮世ばなし 付・明心宝鑑』(昭和47年8月20日、勉誠社発行)
    ★『可笑記大成――影印・校異・研究――』(昭和49年4月30日、笠間書院発行)
    ★『新可笑記』(昭和49年10月25日、勉誠社発行)
    ★『江戸雀』(昭和50年11月23日、勉誠社発行)

    そのような状況の中で、近世末期の女性の日記に取り組んだのである。仮名草子研究から離れて、名も無い女性の日記の分析・公刊に10年間を費やした。仮名草子研究者・深沢秋男など、どうでもよい。井関隆子という女性を、歴史の上に登場させたい。その方が、意義がある、そう考えたのである。

    ■『井関隆子の研究』2004年、和泉書院発行