コトバンク  鈴木重嶺

2017.05.07 Sunday

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    コトバンク  鈴木重嶺

    鈴木重嶺 すずき しげね

    “術人名辞典の解説

    鈴木重嶺

    歌人・国学者。幼名大之進・有定、号は翠園・緑堂・知足斎・兵庫頭等。江戸の人。村山素行に和歌を学び、のち伊庭秀賢につく。勘定・吟味奉行を経て、佐渡奉行・兵庫頭となる。維新後、浜松県知事・相川県知事を務めた。明治初期歌壇の名家。従五位に叙される。明治31年(1898)歿、85才。
    出典|(株)思文閣美術人名辞典について | 情報
    デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

    鈴木重嶺 すずき-しげね

    1814−1898 幕末-明治時代の武士,歌人。
    文化11年6月生まれ。幕臣。鑓(やり)奉行,佐渡奉行などをつとめる。維新後,佐渡相川県権(ごんの)知事となる。国学,和歌を村山素行,伊庭秀賢(いば-ひでかた)にまなぶ。明治11年退官し,東京で鶯蛙吟社を組織した。明治31年11月26日死去。85歳。初名は有定。通称は大之進。号は翠園(すいえん)。著作に「志能夫具佐(しのぶぐさ)」「於よづれ言」など。
    出典|講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例


    ⇔詭攴杜 ウィキペディア

    凡例 鈴木重嶺

    時代 江戸時代後期 - 明治時代
    生誕 文化11年6月24日(1814年8月9日)
    死没 明治31年(1898年)11月26日
    改名 亀太郎(幼名)→小幡有定(初名)→鈴木重嶺
    別名 大之進(通称)、翠園、緑堂、知足斎(号)、子高(字)
    墓所 東京都新宿区大久保の全龍寺
    官位 従五位下、兵庫頭、正六位、従五位
    幕府 江戸幕府
    氏族 小幡氏→鈴木氏
    父母 父:小幡有則、養父:鈴木重親
    子 重明
    鈴木 重嶺(すずき しげね)は、江戸時代後期の旗本、明治期の官僚、歌人。最後の佐渡奉行。
    目次
    1 家系
    2 生涯
    2.1 幕府・明治政府官僚として
    2.2 その後、歌人として
    3 交流
    4 脚注
    5 参考文献
    家系
    家祖の鈴木重経は北条氏康に仕え、次代重元は徳川家康に召し出されて、30俵2人扶持の微禄ながら武蔵国豊島郡大久保村に千坪の領地を拝領した鉄砲玉薬同心の家系として幕末に至る。重嶺の直系の子孫に国語学者の松本誠がいる。
    生涯
    幕府・明治政府官僚として
    中川忠英の家臣小幡多門有則の次男として江戸・駿河台に生まれ、鈴木家10代の鈴木重親(半治郎)の養子となった。 天保2年(1831年)に養父が没すると家督を継ぎ小普請入り。天保4年(1833年)将軍徳川家慶御台所付の広敷伊賀者となり、天保12年(1841年)8月25日広敷取締係より、 江戸城内武術見分の際に、「つるぎだち鞘にをさめし世になれて みがかぬわざのはづかしきかな」の歌を詠み、鼻紙へ一首歌を認めて柔術の師匠の悴で、剣術の師匠である窪田清音に渡す。清音がこの歌を見て松平内匠頭に出したところ、其歌を短冊に認めて差出すようにと命が出る。 これが老中水野忠邦の目に留まり同年10月徒目付に栄進し市谷加賀(現在の新宿区市ヶ谷加賀町)に150坪の屋敷を拝領した。天保14年(1843年)勘定吟味役改役並に一時なるが再び徒目付となり、再び天保15年(1844年)には勘定組頭となった。その後勘定吟味役を経て、元治元年(1864年)7月2日勘定奉行となるがわずか20日余りで同23日に槍奉行となり、慶応元年(1865年)9月13日に最後の佐渡奉行となり、諸大夫に任ぜられ兵庫頭と称する。慶応4年(1868年)閏4月16日に御役御免となったのち、田安徳川家の家老となり新政府との交渉役となった。翌年には新政府の開拓少主典となり、明治4年(1871年)浜松県参事となり、同年12月8日に再び佐渡に渡り、相川県参事となり、明治6年(1873年)従六位に叙任された。明治8年相川県六等判事を兼任し、同年権令に昇進し正六位に叙任された。翌年4月廃県により職を辞し、同年子息の重明に家督を譲った。また従五位に叙任された。その後晩年の明治24年(1891年)2月23日には東京帝国大学旧事諮問会の要請に応じ幕府の財政や勘定所について詳細な証言をしている。
    その後、歌人として

    鈴木重嶺墓(全龍寺)
    幕臣時代より国学や和歌を、橘千蔭系の村山素行や伊庭秀賢に学び、佐渡奉行そして相川県参事・権令として佐渡に合わせて10年在島し佐渡で多くの門弟を育てた(賀筵歌集には65名の佐渡の門人が寄稿している)。職を辞してからは和歌の世界で活躍した。明治9年(1876年)官職を辞し家督を譲り『翠園兼当歌』を著す。明治12年(1879年)『雅言解』(全4巻)を著し、明治17年(1884年)に『越路廼日記』、『志能夫具佐』を著し、明治24年(1891年)『早稲田文学』第3号において和歌の名家として挙げられた。明治25年(1892年)には『翠園寿筵歌集』を著した。明治28年(1895年)、鶯蛙吟社を創立し短歌の雑誌『詞林』を創刊。明治31年(1898年)に85歳で没したが、この年『詞林』は、新派の歌人佐佐木信綱の創刊した『心の華」に合併した。
    ●鈴木重嶺関係資料は、昭和女子大学図書館に「翠園文庫」として保存されている。 また、墓は、東京都新宿区大久保1−16−15、曹洞宗海亀山・全龍寺にある。
    交流[編集]
    勝海舟と親交があり重嶺の記述が海舟日記にみられる。晩年の歌会には樋口一葉が出席し重嶺の指導を受けている。また、葬儀記録には1,068名の記帳があり、毛利元徳、近衛忠熈、正親町実徳、久我建通、蜂須賀茂韶、前田利嗣らの華族や、萩野由之、黒川真頼、井上頼圀、中島歌子ら全国の文化人・歌人が名を連ねた。
    横須賀造船所建設計画の際、建設推進者である小栗忠順に対し「費用を投じて造船所を造っても完成時には幕府はどうなるか分からない」と計画の妥当性を問うた。それに対し忠順は「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」と返答した。又旧事諮問会での証言の際にも忠順について言及している[1]。
    脚注
    ^ 旧事諮問録 68頁
    参考文献
    「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」(深沢秋男『文学研究』92号、平成16年4月)
    旧相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』
    『旧事諮問録』旧東京帝国大学史談会編、青蛙房 2007年 ISBN 978-4790508717
    小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』東洋書林、1997年
    HP「近世初期文芸研究会」→ 「鈴木重嶺関係資料」 参照


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      深沢秋男執筆


    幕臣・歌人 文化11年(1814)6月24日出生〜明治31年(1898)11月26日没、85歳。墓は東京都新宿区大久保1−16−15 曹洞宗海亀山全龍寺。

    本姓、穂積。初め小幡氏。名、重嶺・有定。字、子高。通称、大之進。号、翠園・緑堂・知足斎。従五位鈴木重嶺、不受法名。

    ■幕臣時代

    天保2年(1831)小普請入り、同4年広敷き伊賀者となる。同12年広敷取締係、徒目付となる。同14年勘定吟味役となる。安政年(1855)勘定組頭となる。元治元年(1864)勘定奉行・槍奉行となる。慶応元年(1865)佐渡奉行となる。明治元年(1868)御役御免となり、田安家家老となる。同8年相川県判事となる。同9年廃県により官を辞す。

    ■歌人時代

    幕臣時代から和歌の道に励んでいたが、国学・歌を、橘千蔭系の村山素行・伊庭秀賢に学んだ。官職を辞してからは和歌の世界で活躍した。

    明治9年(1876)家督を重明に譲る。同年『翠園兼当歌』成る。同12年『雅言解』全4巻成る。同17年『越路廼日記』・『志能夫具佐』成る。同24年『早稲田文学』3号に、現在の和歌の名家として掲げられる。同25年『翠園寿筵歌集』刊行。同28年鶯蛙吟社を結社、短歌雑誌『詞林』を創刊。この『詞林』は後年、佐佐木信綱の『心の華』(『心の花』)に合併した。

    明治31年(1898)翠園・鈴木重嶺は85歳で没したが、この年、25歳の佐佐木信綱は短歌雑誌『心の華』を創刊した。新派歌人の代表が佐佐木信綱であるとすれば、鈴木重嶺は旧派歌人の代表の1人であった。

    ■著作など

     鈴木重嶺には『翠園叢書』『翠園雑録』全60巻という膨大な筆録があるが、その他、伊香保前橋之記、詠史清渚集、オトと子との差別或人問、於よづれ言、絹川花見の記、皇風大意、 御諡号概略、島曲廼古豆美、旅路記恵の露、旅路廼日記、二十二番扇合判、農愉、二荒山歌合、夢路の日記など多くの著作があり、歌は、当時の雑誌や歌集に収録されている。鈴木重嶺の著作・所蔵本・関係資料なとを集めた「翠園文庫」が昭和女子大学図書館に所蔵されている。

    ■「鈴木重嶺顕彰会」と全龍寺・鈴木重嶺墓所の案内標示板

     平成16年4月「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」(『文学研究』第92号)を発表したのが機縁となって「鈴木重嶺顕彰会」を創設した。法政大学名誉教授・村上直氏の御指導を頂き、また佐渡市相川の諸氏とも相談して進めたものである。現在の会員は少数であるが、今後は「翠園文庫」を所蔵する昭和女子大学の方々にも参加して頂き、継続的に鈴木重嶺の研究を続けてゆきたいと思っている。

     また、平成16年6月には、鈴木重嶺の御子孫・松本栄子氏、全龍寺・高崎宗矩氏・高崎宗平氏、佐渡市教育委員会等、多くの方々の御理解と御協力によって、鈴木重嶺の墓所に案内標示板を設置することができた。標示板の内容は次の通りである。

        ■最後の佐渡奉行・歌人鈴木重嶺・翠園の墓■

    鈴木家の祖・重経は北条氏康に仕えていましたが、二代・重元は徳川家康に召し出され、武州豊島郡大久保村に四千坪の領地を拝領し、以後、代々徳川家に仕えました。重元は寛永13年(1636)10月8日に没し大久保の全龍寺に葬られ、鈴木家は代々全龍寺を菩提寺としています。

    鈴木重嶺は、文化11年(1814)、幕臣、小幡有則の次男として江戸駿河台で生まれましたが、鈴木家10代・重親の養子となって11代を継ぎました。20歳で広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定奉行、鎗奉行を勤め、慶応元年(1865)佐渡奉行となりました。明治維新後、佐渡相川県知事等を歴任しましたが、明治9年(1867)官職を辞し、以後は和歌の道に励みました。

     鈴木重嶺は若い頃から、和歌や国学を村山素行・伊庭秀賢に学び、佐渡奉行在任中も相川を中心とする佐渡の人々の和歌の指導にあたり、多くの門弟を育てました。東京に戻ってからは、鶯蛙吟社を組織し、短歌雑誌『詞林』を主宰しました。明治歌壇旧派の代表歌人として活躍し、当時としては若い歌人、佐佐木信綱とともに活動し、『詞林』は佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。また、当時の歌会には、樋口一葉も同席して、鈴木重嶺の指導を受けています。

    鈴木重嶺は勝海舟とも深い交流があり、『海舟日記』には、その様子が記されています。明治31年(1898)11月26日、85歳の生涯を閉じましたが、『葬儀記録』には、毛利元徳・近衛忠熈・正親町実徳・久我建通・蜂須賀茂韶・前田利嗣・勝安房等々、錚々たる人々をはじめ、萩野由之・黒川真頼・井上頼圀・中島歌子・佐佐木信綱等々、全国の歌人など1068名の氏名が記載されています。

    参考 「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」深沢秋男(『文学研究』92号、平成16年4月)

    平成16年6月26日

                              鈴木重嶺 顕彰会

                              佐渡市教育委員会

    ■鈴木重嶺関係資料→http://www.ksskbg.com/suzuki/index.html