最上騒動と斎藤親盛

2017.06.07 Wednesday

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    ●別冊宝島の、菅野俊輔監修『江戸の事件簿』を見た。
    3代将軍家光と実弟忠長の対立、松の廊下刃傷事件、桜田門外の変、などなど、300年の徳川時代だから、世継、大奥と、色々の事件が起った。諸藩の騒動も少なくなかった。
    ●私に関係するのは、東北の雄藩、最上57万石の取り潰しにつながる、最上藩のお家騒動である。この改易によって、仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛は浪人の身となってしまう。

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    最上家改易

     元和三年三月六日、最上藩主・家親は山形城中にて急死した。死
    因に関して不審な点があり、幕府も吟味した結果、厳しい条件付き
    で、五月に嫡子・義俊に遺領の相続を認めた。しかし、その後も藩
    政の主導権をめぐって、家臣間の対立が激化した。そのような経過
    を経て、幕府は、元和八年八月十八日、最上義俊の城地と領知を没
    収し、近江・三河に一万石の領知を与えることに決めた。九〇〇人
    以上の家臣は知行や扶知を失い浪人となった訳である。これらの経
    緯に関しては、『山形県史 第二巻』(昭和60年3月)・『酒田市史
    改訂版』(昭和62年3月)等に詳述されている。
     さて、この時、川北奉行の立場にあった斎藤筑後守広盛は、最後
    と思われる書類に署名している。『古代・中世史料 上巻』に収録
    された資料である。

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    505 元和八年(一六二二)九月二十八日

    最上家改易につき庄内の万役(雑税)を書上げる

      万役之事
    一、 八拾六匁ハ 銀弐枚分 酒田灰吹之役年々定り申候。
                  銀や七右衛門。
    一、 弐百四拾三匁五分 銀子 酒田ニ而船売買申役銀。
                  年々高下有。
       (中略)

    一、酒田湊上下出入船役之事、中物次第ニ申付候。
      已上
       戌九月廿八日       寺内近江(印影)
                    高橋伊賀(印影)
                    斎藤筑後(印影)
                    高倉右門(印影)
       御奉行所
       (以下略)
                  (鶴岡 高山昌久氏蔵)
    ……………………………………………

     この資料に拠れば、斎藤広盛が最上家を辞して酒田を離れたのは、
    元和八年九月二十八日以後という事になる。おそらく、十月、十一
    月の、庄内地方に冬の寒さが迫って来る頃だったと思われる。
     『世臣伝』は、最上家改易後の状況を、

    「元和八年、最上家が争論の事起りて、国除かれし時、広盛越後に
    赴きしに、土井大炊頭利勝、懇に招れて、佐倉の城留守の事頼れし
    に、俄に病て空敷なる。年五十五歳とぞ聞へける。」

    と記している。
     斎藤広盛は、最上家の後に入った酒井家に仕えることはせず、酒
    田を去り、父光盛の出身地・越後に向かう。その際、幕府の重鎮・
    老中・土井利勝から、佐倉城の留守居をしないかと打診されたという。
    土井利勝は、慶長十五年に佐倉藩主となり、数度の加増で、十四万二
    千石を領有していた。斎藤広盛は、老中土井利勝にも認められていたことになる。しかし、広盛は、佐倉に赴く前に、急病で他界したという。

    【拙稿「如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(5)――斎藤広盛、慶長出羽合戦から最上家改易まで――」(『近世初期文芸』第31号、平成26年12月)】
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    ●最上家親が急死せず、最上家の取り潰しがなければ、如儡子・斎藤親盛は、最上家親の家臣として、主君に側近く仕えていたと思う。斎藤清三郎は、主君・最上家親から「親」の1字を賜り「親盛」と名乗ることを許されていたのである。最上家が改易に合わなければ、親盛もまた異なる人生を送っていたものと推測されるし、また、異なる著作を遺していたかも知れない。私は、大学3年から4年にかけて、『可笑記』を読んで、この作者に、いたく惹かれた。55年も前のことである。

    ■別冊宝島 『江戸の事件簿』


    ■最上騒動


    ■最上家系図


    ■『近世初期文芸』第31号 平成26年