『井関隆子日記』と『源氏物語』 〔3〕

  • 2019.09.13 Friday
  • 06:36
『井関隆子日記』と『源氏物語』 〔3〕

  四 考  察

 以上、『井関隆子日記』と『源氏物語』の影響関係にあると思われる条々を列挙てみたが、以下に、隆子は『源氏物語』を如何に享受し、活用しているのか、その点を、やや具体的に考察したい。

【1】天保十一年三月一日→紅葉賀
 『源氏物語』では、十歳過ぎると、雛遊びはしないものだと、右近は紫上に注意しているが、現在では、子供盛りはとうに過ぎた年老いた女までも、雛遊びをしている。時と共に風習の変化してゆく様を比較し、『源氏物語』の中に、当時の人々の習慣を推測している。隆子は文学作品にこそ、それぞれの時代の人々はよく描かれている、というのが持論であった。

【2】天保十一年四月九日→胡蝶
 『湖月抄』に「細 召人也。てかけ物也。花 大和物語蜻蛉の日記にもあり。今略之」とあるように『源氏物語』真木柱にも「御めしうどだちてつかうまつりなれたる、もくの君、中将のおもとなどいふ人々だに、ほどにつけつゝやすからず、つらしと思聞えたるを、北方はうつしごゝろものし給ほどにて、いとなつかしう打なきてゐたまへり。」とあり、『かげろふ日記』(中)には「うせ給ひぬる小野の宮のおとゞの御めしうどどもあり、これらをぞおもひかくらん」ともある。隆子は「召人」の多くの用例の中から胡蝶の条を選んで引いている。それは、隆子が続けて書こうする内容と関わっているものと思われる。
 堀某の召人は殿の寵愛を受けて、一人時めいている。彼女は殿に取り入って、自分の縁者を取り立ててもらったり、さらには就職の斡旋をして、手数料を取っている。その増長振りを、見るに見かねた二十歳ばかりの家臣が、主君のためを思って、この女を殺そうとする事件まで発生してしまった。このような内容故、同じ召人の中でも、余り芳しからぬ胡蝶の例が引き合いに出されたものと思われる。なお、この堀某は、現在、特定出来ないが、「世の御政事とりも」つ人物であると言い、『日記』の原本には欄外に杉嶋勾当らしい人物から、この事件の詳細を聞いたと注記している。そのような点から推測すると堀親寚の可能性がある。堀親寚は、文化十一年に奏者番、文政九年より寺社奉行を兼任、同十一年に若年寄、天保十二年には側用人になっている。

【3・4・5】天保十一年五月十七日→夕顔・空蝉
 この条は、夕顔の宿の隣近所の碓の音や商人が生活の苦しさを語り合う、市井の喧騒から書き起こし、我が大江戸の町々の庶民の暮らしに筆を進めてゆく。『源氏物語』における最も庶民的な部分を思い出し、そこから、自分の住む江戸の現実へと視点を移している。隣家の子供の泣き声、使用人達の言い争う声、さらには、こちらは食事時だというのに、隣家ではトイレの汲み取りを始める事など、実に閉口すると書き進める。そう言えば、昔物語を見ると、トイレや糞尿の事も結構記されている、と指摘する。空蝉の女房が「あな腹あな腹」と走るのはトイレに行く様であり、『落窪物語』の少将の衣に糞が付いた事、『今昔物語』で本院ノ侍従のトイレの様を平仲が覗き見しようとした事、ある法師が仮名暦に「はこせぬ日はこせぬ日」と続けて書いて、女房が尻を抱えて困惑した事等々、延々とこの種の話柄を書き続けるのである。隆子の古典の利用は、引用的なものではない。このように自分の文章の中に、自由自在に取り入れて使っている。それは、並々の力量では出来ない事である。

【6】天保十一年五月二十六日→松風
 隆子は、井関家に嫁いで二十年程過ぎた。四谷の実家の庄田家は、甥の安玄が家を継いだが、身持ちが悪く、弟の安明か後を継ぐ。しかし、若年という事もあって、幕府の役職にも就けない。築地の本家に居候している身では、実家の管理も思うに任せないのであろう。留守番の老人が一人いるのみで、六百余坪の庭も荒れ放題である。
 久し振りに訪れた隆子は、その様子をこのように描写している。苔むした井戸に近寄って見ると、その水だけが昔と変わらず澄んでいる。すかさず作者は松風の明石の尼君の歌を想起する。
 荒廃した我が家の前に立ち、悲しみに埋没する事無く、滅びゆく世のはかなさ、人の世の哀れさを、しみじみと文章化している。隆子は個の悲しさや寂しさや懐かしさやを、一般化して書く事の出来る強さを持った女性であった。そうでなければ、今の自分のおかれた立場を、あの明石の尼君に置き換えて表現する事は出来なかったであろう。決してめそめそしてはいない。強靭で繊細な精神の持ち主であった。なよなよとした女々しい精神の女性であったなら、このような雄勁な文章は書けなかったであろう。

【7】天保十一年七月十九日→花宴
 隆子の部屋の襖障子であろうか、そこには源氏絵が描かれていたという。花宴の弘徽殿の細殿で、男は光源氏で、女は朧月夜であろう。源氏絵の花宴では、この場面の絵が最も多い。隆子の部屋の襖障子の絵は、土屋某が描いたものだという。この土屋某は土屋長有ではないかと思われる。土屋長有は、文化十年より小納戸、文政元年より西丸小納戸、天保七年より徒頭、同九年より先手鉄炮頭、天保十一五月二十六日没。この土屋が幕府絵所に勤めていたか、未確認である。江戸幕府の御用絵師には奥絵師と表絵師があり、いずれも狩野家が勤めていた。隆子は土屋某は「近ごろまで御前に仕うまつり御絵の事にあづかりたりしが、御先手仕うまつり」井関家へも折々遊びに来ていたが、去りし月に他界したと言う。
 掲出の『源氏物語画帖』(ここでは省略)は土佐光起のもので江戸初期の成立である。この場面の絵で土佐光吉の『源氏物語画帖』(京都国立博物館蔵)は、光源氏を左下にした構図となっている。隆子の部屋の絵を土屋が描いた時、これらの土佐派
の源氏絵を参考にした可能性は大きいと思われる。隆子は「見もしらぬ雲の上、あとはかもなき空事とはいへども、式部の御許の、世にかしこき筆のすさびのいみじきにか、誠にむかし有けん人の心地せられて、をかしうあはれにもおもはる。」と言っている。おそらく、このような源氏絵のある部屋で、古典の世界に遊び、しかも、移りゆく現実の社会へも鋭い観察の目を向けながら生活していたのであろう。

【8】天保十一年七月二十六日→夕顔
 七月二十六日、今年は開花が遅れていた朝顔が、隆子の住まいの東側の垣根に色とりどりの花を咲かせた。普段はぱっとしない垣根も、この朝顔のお蔭で家中から持て囃されている。隆子は、そこから『源氏物語』の夕顔の巻に想を転じる。源氏絵も見た事があるが、その夕顔の花は、どうという程のものではないが、荒れた垣根に咲いているからこそ趣も深いものがあるのであろう、と一首を詠じる。隆子は部屋の襖障子の花宴の他にも、源氏絵を観ながら、平安物語の世界を楽しんでいた事が知られる。

【9】天保十一年十月七日→葵
 十月七日、玄猪の祝いである。そういえば、この行事はいつ頃から始まったのであろうか。あの『源氏物語』にも出ているので古くからの事であろう。ただ、それだけの事であるが、隆子は、折々、行事や習慣などがいつ頃から始まったのか、言ってみれば事物起源について言及している。これは、この幕末期に大流行した考証随筆と関連しているように思われる。しかし、それらの考証随筆の如く、疑問をどこまでも追尋することはしない。ここに、この『日記』が読みやすいものとなっている理由がある。

【10】天保十一年十一月十七日→浮舟
 この条は、十年程前に起きた旗本心中事件を書き留めたものである。心中の女性は旗本・赤井某の妹、男性は同じ旗本の春日半五郎の弟・左門。旗本同志の春日家から赤井家に縁談が持ち込まれ、妹は、てっきり左門と思い込み、喜々として嫁入りしてみると、相手は兄の半五郎であった。しかも同じ屋敷内に左門も同居していた。このような経緯を知った左門も同情し、やがては恋情へと変わり、二人は一線を越えてしまう。進退極まった男女は心中を決意する。いざ心中という、その直前に、女は親宛の手紙を書く。このまま死んでしまえば、何も知らない両親は、ただ色好み故の心中と思うだろう。その事が悔しかったのである。隆子はこの時の女の気持ちは、あの『源氏物語』の浮舟に通うものがあると言う。薫と匂宮の間で苦しみ、入水を覚悟して、その直前に親宛に手紙を認める浮舟の心の中は、空事とは言いながら、誠に哀れで悲しく涙が落ちる。この時の新妻の悲しみも決して浮舟に劣るものではない、と書いている。この条は確かに実際にあった事件ではあるが、それは十年も前のことであり、隆子の手で書かれた創作と言ってもよい。同じ女性の立場から、旗本の新妻と浮舟に思いを寄せているのである。

【11】天保十二年一月一日→初音
 二月一日に行われる歯固めという行事、ここでも『源氏物語』の記述を思い起こして比較している。隆子は一つ一つの行事で、昔物語の描写に思いを馳せ、当時と現在とを比較して、人の世の移り変りを想像しているのであろう。

【12】天保十二年一月五日→末摘花
 一月五日、江戸九段坂下の朝は風が強く、寒さは一段と厳しい日であった。二階から前の大通りを見下ろすと、幕府に仕える人々は言うまでもなく、一般の人たちも入り交じって、忙しそうに行き交っている。人々の顔は、あの末摘花のように鼻先が真っ赤である。冬の日の早朝、家の前の通りを行き交う人々の表情を見て、例の『源氏物語』の常陸の姫君の赤い鼻を思い出す。隆子は、そんな文学体験の中で生活していたのである。

【13】天保十二年七月七日→須磨
 天保十二年閏一月七日、第十一代将軍・徳川家斉が没すると、首席老中・水野忠邦は天保の改革に着手したが、それは家斉の側近三名の解任から始まった。ここで「水野の伺がし」と言っているのは、三人の内の一人、水野忠篤である。『徳川実紀』には「(七月)二日寄合水野美濃守〔忠篤〕とがめられてのち。行状よろしからずと聞えしかば。致仕し蟄居せしめられ。家はその嫡孫備前守に継がしめらる。」とある。この条は、その後の事であるが、隆子は、はかなき物語の須磨の記述を引き合いに出している。彼女の現実生活と『源氏物語』との関係は、極めて密接なものであった事が推測される。この条は引用的な使い方をしていて、隆子が使用した『源氏物語』の本文を推測する上で参考となる。

【14】天保十三年一月七日→末摘花
 この条は、天保十二年十一月に起きた、伏見宮幾佐姫と勧修寺宮済範親王の出奔事件を取り上げている。事件の成り行きを詳細に述べてきて、終わりに落剥した屋敷の様から、末摘花の様子に思いを馳せている。

【15】天保十三年九月二十二日→玉かづら
 第十二代将軍・徳川家慶は、有栖川●仁親王の王女・精姫を養女として江戸へ迎えた。天保十三年九月二十日に品川の宿に到着し、二十一日に江戸城に入った。このように、京都から江戸へ迎える時は、親元である有栖川家へ莫大な黄金を贈るのは当然として、衣類から調度にいたるまで、ことごとく徳川家で準備したらしい。
 品川宿に着いたら、着物も着替え、髪型も梳きなおして、京都の様子は全て改めて江戸の仕来りに従って整える。姫の体ひとつのみを迎えた。また、お供の女中の衣服や調度も同様に新調した。
 家慶は、このように養女を迎えた経験が無かったので、その対応には大変な力の入れようであった。有栖川家の姫宮たちは皆器量良しとも言われており、精姫はこの時十八歳で、体も一人前の女性である。家慶は何彼につけて姫の許へ通っているが、その様子を見ている人達は、本当は女性としての姫に興味があるのに、我が子を心配しているように取り繕っているのである、と噂していろとのことである。それは、ちょうど、光源氏が、自分の子として引き取った玉鬘に恋情を覚えたのに通じるところがあるようだ。清和源氏の末裔というのも似つかわしい事だ。事実は別として、隆子は城中の噂を親経か親賢から伝えられ、こんな批評をしている訳である。『源氏物語』をよく読み込んでいなければ出てこない評言であろう。

【16】天保十三年十二月十七日→橋姫
 この条は、「火」の歌について述べている。『古事記』に履中天皇の歌があり、『源氏物語』には橋姫の巻に八の宮の歌があるが、さらに探せば、あるだろう、と言って「見人も」の歌を引用している。隆子は、これまで歌に詠まれない題材でも、特に品の無いものは別として、詠み込んでみたい、と言って積極的に取り組んでいる。ここも、その一例であり、この後に長歌と反歌を付加している。

【17】天保十四年十一月二十六日→夕顔
 現在は蝋燭を便利に使用しているが、これは、いつ頃から使い始めたのであろうか。庭火、かゞり火、松の火串、油火なども記録に見えているし、『源氏物語』には紙燭召してなどと出ているが、これはどんな物であろうか。ここも、事物起源考的な興味から書かれている。

  五 おわりに

 『井関隆子日記』は、公的な記録や、学識者・賢人の私的な記録ではなく、一人の年老いた女性の心遣りとしての筆ずさみとして書かれた。したがって書き込まれる内容も、確たるものではなく、「ほかなき事」である、と隆子は言っている。彼女の言う「ほかなき事」とは、物語の世界であり、和歌の世界であり、言ってみれば、日常的な体験から触発されて想起する古典の世界であり、和歌を詠じたりする、心象の文芸的世界が中核をなしている。少なくとも、『日記』初発の頃はそうであった。当然のこととして、古典の諸作品が多く引用されたり、自らの行文の中に利用され
る事となる。

 引用され利用される古典の中でも『源氏物語』は、『万葉集』『古今集』『拾遺集』『古事記』『日本書紀』等に続いて、多く利用されている。隆子が利用していた『源氏物語』の本文は、別本系統の版本ではないかと推測される。今回は、とりあえず『湖月抄』を使用したが、おそらく、隆子は、このように詳細な注のあるテキストではなく、もっとすっきりした版本を使っていたものと思われる。

 隆子の『源氏物語』の利用は、いずれかと言うならば、引用的ではなく、自分の文章表現の雰囲気や情趣などに適合した条々を想起し、これを引き合いに出す、という事が多い。これは、十分に出典を理解し、咀嚼していて初めて可能な事である。隆子の教養の深さと、文章表現の力量の程が推測される。また、事物起源考的な興味から『源氏物語』本文を利用する事もあるが、これは、当時、考証随筆が流行していた事と関連しているものと思われる。ただし、隆子は、その疑問を徹底的に追究することなく、さらりと切り上げている。ここに創作者としての一面を知ることが
出来る。

 隆子は、『源氏物語』をはじめ、多くの古典を高く評価し、これを利用はしているが、決して、その古典の世界に埋没してはいない。これは、文学ほど、その時代その時代の人々の様子を活き活きと伝えるものはない、という認識と、自分の生きている、現実の天保期の、この大江戸の様子を後世に伝えたい、という思いとがあったからであろう。

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●この一文は、「講座 源氏物語研究 第5巻 江戸時代の源氏物語」(平成20年9月20日、おうふう発行)に寄稿したものである。10年ほど前のものである。井関隆子の古典利用が、単に引用して利用するようなレベルではないことが、理解して頂けると思う。