齋藤豪盛著 『みちの奥の 町工場物語』 責了

2016.05.27 Friday

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    ●今日、稲栄社印刷へ、齋藤さんの『みちの奥の 町工場物語』の責了を
    送った。6月に、齋藤さんの同級会があるという。出来るならば、
    その会に間に合わせたい。そのように印刷所の吉田さんにお願いしたのである。
    ●小学校の同級会、80歳になった友達、昭和11年に、東京の目黒で生れた、
    同じ年の友達、その会で、自分の生きてきた記録を差し上げる、楽しいひと時
    になるだろう。
    ●私も、齋藤さんの依頼で、思い出話を執筆した。このような機会に恵まれた
    ことに、感謝する。

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      七、斎藤豪盛氏と私                     深沢秋男

      1、私のライフワーク

     私は、もともと大学は工学部の建築科へ行く予定であった。しかし、途中で文学部日本文学科に変更した。建築は家を建てて人の役に立つ。文学へ進んでも人の役に立つようなことをしたいとは考えた。文学部では、卒業論文は一生を左右する最重要な科目である。近代文学、中世文学と検討したが、最終的には、近世文学、仮名草子の『可笑記』という作品に決めた。私は、この作品を読んで、大変興味をもった。こんなに、厳しい批評精神の持ち主とは、どのような人物であろうか。それに、読んでいて、教えられる事が実に多い。これを研究しよう。そう決めたのである。
     当時、この作品は、余り高く評価されていなかった。私は、この作品を再評価しようと決意したのである。以後、五十年余、今、この作品は、かなり高く評価されるようになったと思う。
     私は、研究の順序としては、まず、作品研究を進めた。『可笑記』『堪忍記』『砕玉抄』『百八町記』などの研究に集中していた。その頃、この作品の作者研究は、田中伸氏や野間光辰氏が進めておられた。その中で画期的な研究は、昭和五十三年発表の、野間光辰氏の「如儡子系伝攷」である。この論文は、〔上〕〔中〕が雑誌『文学』に発表された。その抜き刷を頂いた時、この野間氏のお説に対して、徹底的に吟味し、検討を加えさせて頂くことを、私は、了承してもらっていた。そうして、〔下〕の発表を待っていたのである。しかし、〔下〕は未発表のまま月日が経過した。

     2、斎藤豪盛氏との出会い――如儡子の伝記研究

     昭和六十二年四月三十日、京都大学名誉教授、野間光辰先生が御他界なされた。七十七歳であった。「徹底的な調査と考証によって近世小説史、近世俳諧史研究を刷新、……」と朝日新聞は報じている。野間先生の御他界を機に、この大先学の「如儡子系伝攷」を熟読・吟味するという、野間先生との約束を果すために、私は、如儡子の伝記研究に着手したのである。
     私が初めて二本松の斎藤家の墓所を調査したのは、野間先生が亡くなられた年の、八月六日である。午前十時、斎藤豪盛氏、漆間瑞雄氏、渋谷信雄氏、大隈正光氏が松岡寺に来て下さった。事前に、二本松市役所で、松岡寺の住所などを確認して準備したのである。
     この時、斎藤豪盛氏は、名刺代わりだと申され、二本松から御自宅の長井市まで案内して下さり、初めて斎藤家の仏壇にお参りし、如儡子の位牌を拝見させてもらった。さらに、次の日は、出羽三山を越えて酒田・鶴岡へ案内して下さった。この時、郷土史研究家の、田村寛三氏、堀司朗氏を紹介してもらい、鶴岡市立図書館、酒田市立図書館などにも廻って下さった。
     豪盛氏の愛用車は、トヨタの白色のセルシオである。二時間乗っても、三時間乗っても、全く疲れない。江戸初期、庄内の戦場を白馬にまたがって、戦国の世を駆け抜けた、筑後守広盛の面影を慕っておられるように、私には思える。
     以後、斎藤豪盛氏には、数え切れないほどの、御配慮を賜った。斎藤家のことは、何でも知りたい、という私の願いに、斎藤氏は全て応えて下さったのである。羽黒山の宿坊に長期間泊り込んで、長老にもお会いし、全山内を調査したこともあった。斎藤家の越後のルーツを突き止めたいと、新潟の各地を車で廻ってもらったこともあった。長井の萩苑では、斎藤家十四代康盛氏と共に風呂に入り、何と、私は背中を流して貰ったのである。また、ある時、豪盛氏からの手紙に、先生が、あの世に行ったなら、真っ先に、如儡子親盛が駆け付けるでしょう、と書いても下さった。
     私は、このような、如儡子の御子孫にめぐり会えて、本当に幸せである。

     3、斎藤豪盛氏の見事な生き方――『みちの奥の 町工場物語』を読んで

     昨年だったと思う。豪盛氏が、今まで生きてきたことを纏めたい、と申された。私も大賛成だった。今年の四月、ようやく脱稿したと原稿が送られてきた。はじめから読み進めて、私は、感激、感動の連続だった。長年、お世話になっていたので、斎藤氏のことは、それなりに存じ上げてはいたが、知らなかった事が、次から次へと綴られていた。しかも、それらは、斎藤氏が実際に行動してこられた結果であった。推測や創作ではなかった。
     私は文系で研究職ゆえ、金型関係のことや会社経営のことなどはわからない。しかし、日本の企業でも、アメリカとの取引が少なかった頃に、単身、自社のサンプルを持参して、アメリカのGEに乗り込んで、受注に結びつける、その情熱と決断力の魅力は、心を振るわせる。
     日本酒、〔深山神水〕の話も魅力的である。高校生の頃、食料難の時代に、酒造会社で、酒のもとになる白米の御飯を頂いたことから、事は始まった。酒蔵の杜氏にも認められ、やがて日本酒ブレンドの世界に深入りしてゆく。毎年、新酒を作り、試飲会を開く。〔神水会〕の会員は一六〇名位だという。私は、お酒が飲めないので、この会には入れてもらえない。しかし、何年か前、東京の三菱電機の保養センターで開催された時、酒田出身の篆刻家・冨樫省艸氏に連れられて、私はオブザーバーとして出席させて頂いた。五十名ほどの会員が、各自、木村盛康先生作の、番号入りの〔神水盃〕を携帯して、長井から持参した酒のさかなで、新酒の試飲をされた。私は、このような世界もあることを教えられた。この〔深山神水〕の試飲会は、今年も開催されたという。
     この斎藤氏の自分史には、余人には為し得ないような、事柄がたくさん散りばめられている。

                                    平成二十八年五月十四日

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    ■齋藤家菩提寺、松岡寺

    ■齋藤家墓所

    ■墓誌

    ■齋藤氏御夫妻と妻 
    平成27年墓参の折

    ■齋藤豪盛氏愛車、セルシオ