歴史と改元

2017.06.11 Sunday

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    ●昨日、書店で、『歴代天皇と元号秘史』別冊宝島、をみた。商品説明には、次の如く出ている。
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    今生天皇の生前退位に関連して、2019年1月から新元号になることが話題になっています。
    近代の明治天皇からは「一世一元制」ですが、過去にはひとりの天皇が2つ以上の元号で治世をしていたことも珍しくはありません。この元号は誰がどう決めているのか、なぜ改元するのか、歴代の天皇と元号の歴史をひもとけば、日本の本当の姿が浮かび上がってきます。「光文事件」など元号をめぐるドラマも紹介します。
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    ●私達が、過去の歴史をひもといて見る時、この〔改元〕は、様々なヒントを与えてくれる。私は、かつて、寛永末年(1643)から寛文初年(1661)の時代を探るために、この〔改元〕に着目したことがあった。
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    慶長=18年9箇月、元和=8年7箇月、寛永=20年10箇月、正保=3年2箇月、慶安=4年7箇月、承応=2年6箇月、明暦=3年3箇月、万治=2年9箇月、寛文=12年4箇月、延宝=8年

     前に20年10箇月の寛永を、後に12年4箇月の寛文をもつこの時期は、通算して16年3箇月に過ぎないが、この間に正保・慶安・承応・明暦・万治と5度も改元されている。
     改元は吉事または凶事が発生した場合に行なわれるのが通例のようであるが、この期の改元理由をみると、

    正保 後光明天皇の即位により、三帝一号の先例が無いために改元。
    慶安 『日本歴史大辞典』は理由未詳としているが、林道春の子・
     春斎が延宝元年に記した『改元物語』には「……正保五年亦京童部
     ノ癖ナレバ正保焼亡卜声ノ響似タリ、保ノ宇ヲ分レバ人口木トヨム
     ベシ、又正保元年卜連書スレバ正ニ保元ノ年トヨム、大乱ノ兆也卜
     放言ス。又少シ書籍ヲモ見ケル者ハ、正ノ字ハ一ニテ止ムト読、久
     シカルマジキ兆也トイヘリ。カヤウノ雑説マチマチナルニヨリ京兆
     尹板倉周防守重宗内々ニテ言上シケルニヤ慶安卜改メラル。」とあ
     る。
    承応 これも理由が詳かでないというが、『改元物語』には次の如
     くある。「……其四年二ニ当リケル四月二十日、大猷公薨ジタマフ。
     同八月十八日、今ノ大君征夷大将軍ニ任ジタマフ。此ニ由テ明年
     ノ秋改元承応卜号ス。」
    明暦 後光明天皇が没し、後西天皇が即位した事に依って改元。
    万治。江戸大火に依って改元。
    寛文 京都大火に依って改元。

     という事になるが、正保を除くといずれも凶事によって改元され
    ており、これはこの期の社会状態をそのまま反映したものという事
    ができる。この間の主な出来事を列挙してみると次の如くである。

    寛永19年 △寛永の飢饉頂点に達する。△人身売買を禁ずる。
    寛永20年 △田畑の永代売買を禁ずる。
    正保2年 △江戸吉原全焼する。
    慶安2年 △慶安御触書を公布する。
    慶安4年 △三代将軍家光没する。△松平定政、意見書を幕府に出
     し封を没収される。△慶安の変。△十歳の家綱。四代将軍とな
     る。△牢人の抱え置きを禁ずる。
    承応元年 △承応の変。△若衆歌舞伎を禁ずる。△かぶき者を追捕
     する。
    承応2年 △佐倉騒動。
    承応3年 △後光明天皇没する。
    明暦元年 △かぶき者を追捕する。
    明暦2年 △江戸大火、48町焼失。
    明暦3年 △江戸、明暦の大火、死者10万人。
    万治元年 △江戸大火。
    万治3年 △江戸大火。2350戸焼失。△堀田正信、時政批判書を
     幕府に出し改易となる。
    寛文元年 △京都大火。

     要するに、大名の改易・転封による牢人の激増、参勤交代・築城
    などによる諸藩財政の逼迫、農政の転換等々の問題を前代から引き
    継いだこの時期は、それだけでも既に多難であった。それに寛永の
    大飢饉、幼少の家綱を残しての家光の死、相続く大火などが加わっ
    たのである。社会が揺れ動く条件はそろっていた、という事ができ
    ると思う。
     このように激動する社会の中で、その思想の中心的立場にあった
    儒学の流れをみる事は、当時の知識人の動向を知る上で参考とな
    る。
     周知の如く、日本近世初期の儒学は、藤原惺窩等によって究めら
    れた朱子学であった。そして、惺窩に学んだ林羅山が、慶長12年
    に将軍家の侍講となって以来、朱子学は徳川幕府の官学としてその
    隆盛を極めたのである。しかし、この林羅山が73歳で没した明暦
    3年(1657)は、この儒学界に新しい動きが芽ばえはじめた時
    期でもあった。
     中江藤樹・熊沢蕃山の陽明学や、山鹿素行・伊藤仁斎の古学など
    がそれである。

    寛永19年 熊沢蕃山、中江藤樹に師事する。
    正保元年 中江藤樹、37歳で『陽明全書』を読み、朱子学より陽明
     学へ転向する。
    正保2年 熊沢蕃山、池田光政に再び仕える。
    慶安元年 中江藤樹、41歳で没する。
    慶安3年 中江藤樹の『翁問答』刊行。
    承応元年 山鹿素行、浅野長直に仕える。
    明暦2年 山鹿素行の『武教要録』『修教要録』『治教要録』成る。
    明暦3年 林羅山、75歳で没する。
    寛文2年 伊藤仁斎、古義堂を開く。
    寛文5年 山鹿素行の『武教小学』『聖教要録』『山鹿語録』成る。
    寛文6年 山鹿素行、『聖教要録』の事により赤穂へ預けられる。
     そして『可笑記評判』刊行の万治3年に、熊沢蕃山は41歳、
    山鹿素行は38歳、伊藤仁斎は33歳であった。この時の浅井
    了意の年齢を北条秀雄氏の推定(「浅井了意」)によって逆算する
    と、40歳から50歳という事になる。了意と同時代の知識人が、
    この時点でこのような動きを示しはじめていたという、この事実は
    注意すべき事と思われる。このような思想の対立・論争は仏教各派
    においてもなされており、さらに儒仏の論争も活発に行なわれてい
    たのがこの時代であったと言える。
      【「『可笑記評判』とその時代――批評書の出版をめぐって――」
       (『文学研究』第33号、昭和46年7月)】
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     如儡子・斎藤親盛の『百八町記』が成立したのは、明暦元年(1655)
    であり、刊行されたのは、寛文4年(1664)だった。まさに、このよう
    な時代背景の中で著作されたのである。

    ■『歴代天皇と元号秘史』 別冊宝島


    ■『百八町記』奥書・刊記