井関家の収入

2017.07.26 Wednesday

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    ●〔寛政請書継御用出役相勤申候〕というサイトを見た。井関家の収入に関して記していた。
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    タグ:井関隆子
    2017年06月11日
    井関 250俵
    井関 二百五十俵
    寛政譜(10)85頁 親興

    (1)
    親興――→(2)へ
     乙七郎
       實父 新見彦兵衛正鋒三男
       後妻 庄田主税安僚女

    浚明院様御代生明和三丙戌年
    天明四甲辰年四月二十五日浚明院様江初而御目見
    文恭院様御代寛政二庚戌年七月二十九日父弥右衛門願之通隠居被仰付家督無相違被下置小普請入
    寛政六甲寅年十月八日御納戸江御番入被仰付
    寛政九丁巳年二月十三日慎徳院様江被為附
    文化_年_月_日西丸御納戸組頭被仰付(註1)

    (註1)
    『柳営補任』(4)151頁の西丸御納戸組頭のところに井関乙七郎の名前は出ているが、御役替の年月日は空白。『文化武鑑』では文化四年から西丸御納戸組頭に登場し最後の文化十四年まで掲載されている。『文政武鑑』はまだ確認してない。

    (2)
    親経――→(3)へ
     富之助 次郎兵衛 縫殿頭 下総守
    文化二乙丑年十月十三日従部屋住被召出御小納戸被仰付
    同年十一月五日西丸御小納戸被仰付
    同年十二月十六日布衣被仰付
    文政八乙酉年六月_日西丸御小姓被仰付
    文政九丙戌年十二月十六日叙爵被仰付叙従五位下任縫殿頭
    天保八丁酉年四月二日慎徳院様御本丸江御移徒之節被召連
    同年八月二十三日二丸御留守居被仰付
    天保十二辛丑年六月二十四日廣大院様御用人被仰付(註2)
    弘化三丙午年十二月十四日睦宮御下向并御婚礼御用相勤候ニ付時服_巻物_拝領之
    嘉永二己酉年正月二十九日澄心院様御下向ニ付於當地御用可相勤旨被仰渡
    同年十月十六日澄心院様御入輿御用被仰付
    同年十月廿日澄心院様御下向御用相勤候ニ付時服_巻物_拝領之
    同年十二月十二日温恭院様御婚礼御用相勤候ニ付金_枚巻物_拝領之
    嘉永四辛亥年三月二十四日出精相勤候ニ付勤之内七百俵高ニ御足高被成下(註3)
    嘉永五壬子年十二月二十五日線姫君様御引移御用相勤候ニ付時服_巻物拝領
    安政元甲寅年閏七月二十一日病気ニ付願之通御役御免寄合被仰付

    (註2)
    御廣敷御用人と同じこと。六月朔日に廣大院様が西丸から移って来たので廣大院様御用人と唱える。廣大院様は文恭院様(家斉公)の未亡人。

    (註3)
    七百俵高にしてくれたので御足高が450俵になり、御役料の300俵と合わせると1000俵貰えるようになったということ。御足高の計算は1石=1俵に換算して行うから、700石=700俵で、家禄250俵だと、足してもらえる不足分は450俵。並の通りだと御廣敷御用人は500石高なので、井関親経の御足高は250俵にしかならない。
     この他に、惣領が部屋住で御小納戸を勤めているので、部屋住の御切米300俵と御小納戸の御役料300俵、計600俵が惣領に支給されている。したがって、井関家の総収入は1600俵になった。


    『甲子夜話続篇 8』に収められた成島司直(東岳)の『玉河道の記』は、家慶公の玉川筋御成の様子を記した文で、騎馬で家慶公に付き従う井関縫殿頭の姿が捉えられている。
    「君は網代の御笠の、裏は銀をもてよそひたるをめして、藍革もてよそひし御鞭をもたせ給ひ、嶋巡りとか聞えし駿馬をはせ給ふ。雷光のかがやくごときは、殊におがまれさせ給ふなるべし。御小姓縫殿頭親経(井関縫殿頭)馬上に御剣をもちて参る」
     また、『甲子夜話三篇 4』190頁に井関縫殿頭が西丸御普請上納金を願い出たことと『同 5』249頁にそのことで時服を三つ拝領したことが出ている。

    (3)
    某――→(4)へ
     貞之丞 次郎右衛門 肥前守
      實父______
    文政九丙戌年十二月二十二日文恭院様江初而御目見
    文政十二己丑年六月二十六日父久々相勤候ニ付従部屋住被召出両番之内江御番入
    天保十己亥年正月十三日御小納戸被仰付(西丸御書院番より)
    嘉永四辛亥年十月十三日西丸御小納戸被仰付
    嘉永六癸丑年九月二十二日温恭院様御本丸江御移徒之節被召連
    安政五戊午年八月温恭院様薨御ニ付同年十月六日御小納戸唯今迄通可相勤旨被仰渡
    文久二壬戌年閏八月二十五日御上洛御用被仰付
    文久二壬戌年十二月二十六日叙爵被仰付叙従五位下任肥前守
    文久三癸亥年八月二十四日御廣敷御用人被仰付(和宮様天璋院様御用人)
    元治元甲子年五月二十六日御人減ニ付。御役 御免。勤仕並寄合被 仰付
    慶應二丙寅年卒

    (4)
    某ーー→(5)へ
     菊之丞
    弘化二乙巳年九月二十三日慎徳院様江初而御目見

    (5)

     信太郎
    慶應二丙寅年十一月十日祖父跡式無相違被下置

    参考文献
    『続徳川実紀』
    『柳営補任』
    『文化武鑑』
    『事々録』(西丸上納金)271

    タグ :旗本井関隆子井関縫殿頭
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    ●私は、次の如く記している。
    「 当主・親経は、家慶小納戸・西丸小納戸・二丸留守居を勤め、天保十二年からは広敷用人となり、家斉の正妻・広大院の掛を担当している。持高二百五十俵の外に役高七百俵を貰っていた。孫の親賢も天保十年から家慶小納戸についているので、井関家としては、親子二代で将軍家に仕え、豊かで安定した生活が続いていた。」(『井関隆子の研究』)
    ●天保12年に、親経が広敷用人を拝命した時、親戚一同が、お祝いに集まって、大変喜んでいた。このように、一家の収入が多くなったので、祝ったのである。


    ■〔寛政請書継御用出役相勤申候〕