川嶋至先生

2017.11.22 Wednesday

0
    。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
    川嶋 至(かわしま いたる、1935年(昭和10年)2月15日 - 2001年(平成13年)7月2日)は、文芸評論家。北海道札幌市生まれ。1958年(昭和33年)、北海道大学文学部国文科卒業。1964年(昭和39年)、同博士課程中退。その後、岩手大学講師ののち、東京工業大学助教授、教授。昭和女子大学教授。川端康成研究家として知られる。
    大学院時代の1961年(昭和36年)3月、評論「『伊豆の踊子』を彩る女性(上・下)」を発表し、いち早く川端康成の初期の恋人「伊藤初代」の存在に着目していたが、この論はほとんど注目されなかった[1]。川嶋はこの仮説を、「細川皓」の名で『群像』の新人文学賞に応募。入選しなかったが、選考委員だった伊藤整の推薦で1967年(昭和42年)の『群像』9月号に「原体験の意味するもの―『伊豆の踊子』を手がかりに―」と題して発表されて、「伊藤初代」の存在が文学界に広まった[1]。この評論の注目により、同年に講談社から『川端康成の世界』を出版[1]。さらに様々な川端作品に伊藤初代の影があることを論考。初代についての新たな調査を行なった[1][2]。また、初代の「幻影」がカジノ・フォーリーの踊子・梅園龍子や、養女の黒田政子へ引き継がれていったという仮説も提示するなど、川嶋は鋭い指摘をしていた[3]。
    その後、1974年(昭和49年)、江藤淳らの同人雑誌『季刊藝術』に連載した「事実は復讐する」で、安岡章太郎の『幕が下りてから』『月は東に』が、事実に基づきながら安岡に都合のいいようにこれを捻じ曲げていると指摘し、怒った安岡があるパーティーで川嶋と間違えて川村二郎に殴りかかったとされる。文壇の権力者である安岡を批判したことで川嶋は文壇から「パージ」され、江藤淳の推薦で東工大教授になったという伝説がある。川嶋の世話で東工大に就職した井口時男の『危機と闘争』には、川嶋が死んだ時、文芸雑誌にはまったく追悼文は載らず、文壇は川嶋を抹殺したのだと書いてある。
    著書[編集]
    『川端康成の世界』講談社 1969年10月
    『美神の反逆』北洋社 1972年10月
    『文学の虚実 事実は復讐する』論創社 1987年5月
    【ウィキペディア より】
    。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

      文章千古事

     平成十三年七月二日、日本文学科長の川嶋至教授が急逝された。享年六十六歳であった。「日本文学紀要」の編集委員としても、六年間に亙って御指導を賜った。
     川嶋先生は、北海道の札幌にお生まれになり、北海道大学で日本文学を専攻された。昭和三十七年、大炊絶氏・亀井秀雄氏らと『位置』を創刊、「川端康成―大正期に於ける批評活動」「川端康成の創作意識―・観戦記から「名人」へ」等を執筆された。昭和四十二年九月『群像』に「川端康成論―『伊豆の踊子』を手がかりに―」を細川皓の筆名で発表、これが伊藤整氏から高い評価を受けた。さらに昭和四十四年十月には『川端康成の世界』を講談社から出版され、研究・評論の両面から川端文学を鋭く探究された。その後、『美神の反逆』(昭和47年10月 北洋社)、『文学の虚実―事実は復讐する』(昭和62年5月 論創社)等の著書を次々と刊行され、活発な研究活動を展開された。『学苑』にも「川端康成日記の改変」(平成7年9月 六六八号)など、多くの川端康成論を執筆して下さった。先生の川端文学の御研究が、さらに大きく実を結ぶのを期待していただげに、誠に残念である。
     川嶋先生は、学内にあって、常に穏和で誰にもやさしく接して下さった。しかも、学生指導などは、熱心で誠実あふれるものであった。
     しかし、先生の残された御研究の内実は、「学風は骨が太かった。かなり硬い骨だった。私小説ないし実名小説に対する精到な批評は、鋭い牙も磨いていて、臆するところなかった。」という秦恒平氏の追悼の言葉(「私語の刻 闇に言い置く」平成13年7月3日 同氏のホームページ)が的確に示しているごとく、決してひ弱で脆弱なものではなかった。「文章千古事 得失寸心知」という杜甫の詩の一節を捧げて、感謝と追悼のことばにしたい。    (F)
    。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

    ● これは、昭和女子大学の『学苑』第738号、平成14年(2002)1月発行の「日本文学紀要」の巻頭に書いた川嶋至先生追悼文である。 (F)は 深沢秋男 である。 
    ● 日本文学科の川嶋先生が急逝され、国文科の私が追悼の文を執筆することになったのである。日本文学科の紀要は、毎年1月に発行ゆえ、巻頭から追悼ともゆかない。「文章千古事」は、苦心の末の処置だった。
    ● 川嶋先生とは、6年間、共に学科長として、様々なお教えを賜ってきた。書きたいことは、山ほどあったが、1頁と制限されている。そこで、秦恒平先生に御了解を頂いて、氏の言葉を引用させてもらった。
    ● ある時、川嶋先生と2人で雑談していて、昭和女子大の日本文学科と国文科の学生のために、文芸雑誌を創刊したらどうか、と提案してみた。大学から予算を出してもらって、学生から、創作、評論、詩歌、等を募集してはどうか、という私案だった。川嶋先生は、それは、教員が動くのではなく、学生自身の発意でなければ、だめである、と反対された。創作活動に命をかけてこられた先生の御意見であったので、私も従った。