麗女と隆子

2018.12.13 Thursday

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    麗女と隆子

    ●今日、このような書き込みを見た。2004年12月の記事である。かなり力量のある方のサイトの様であるが、何方か分からない。このような、一つ一つの発言が積み重なって、文学作品の評価は、少しずつ、決まってゆく。何の論証もない発言であるが、その人の批評眼が、根底にある。
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     これは『歴路』の「文学大路」の記事です。

    江戸時代の女流文人

     平安時代は女流の時代だったし、近代も女流作家が大きな力を発揮した時代だった。現代文学は女性の存在なしでは語れない。平安から近代までの間でも女性作家は活躍していた。しかし、その領域が和歌を中心とした伝統的な領域に限られていたので、文学史に華々しく登場するというわけには行かなかった。中世文学では作家がはっきりしない軍記ものや説話などが重要な存在になっているので、男女どちらが携わっていたのか分からないものが多いが、やはり寺院を中心に成立していたらしいことを考えると、女性が作品に関わった可能性は低いだろう。散逸してしまった平安物語の模倣作のような物語には女性の関与があったと思われるし、江戸時代に御伽草子として再編された中世の物語の中には女性の手になるものもあったかも知れないが、はっきりはしない。
     江戸時代になると、女性の文学活動はかなり盛んになる。そこにはいくつかの要因が考えられるのだが、一つは、徳川幕府の性格に依るように思える。幕府は征夷大将軍を頂点にしているのだから、鎌倉幕府を雛形にしているように見える。事実、鎌倉・室町と引き継がれる武家政治の末端に徳川幕府は来る。一方で、幕府の文化的な方針は平安の文化を引き継ぐという意識が強い。ただ、平安文化は軟弱なところがあり、それを武家の硬派な意識で補うのだというのが、彼等の主張であった。
     江戸時代に著名な二人の女性が居た。一人は伊勢の御師の家に生まれた荒木田麗女で、彼女は自らが紫式部を継ぐ者だという自負を持っていたらしい。数多くの小説を残しているが、今ではあまり読まれない。歴史小説を書くときにも、戦乱の時代を描くのに、文事、つまり歌会などの行事を中心に描こうとするので、あまり面白くない。彼女としては、平安の文事の継承を主題にしたのだろう。後に与謝野晶子は、「なんであなたが紫式部の後継者なのよ。」といわんばかりの解題を、自分が編纂した『麗女小説集』に書く。それは晶子が心ひそかに、自分こそ紫式部を継ぐ者だと思っていたからかもしれない。
     もう一人の女流文人は井関隆子という。最近『井関隆子の研究』という深沢秋男の研究書が出たが、この女性は幕府の書院番の夫人で当代きっての歌人であった。同時に、詳しい日記を残している。ところどころに絵も入っているこの日記は、江戸後期の市井研究にとても役立だけでなく、江戸時代の日記文学として評価されても良い作品だ。
    彼女はこの日記のなかで、平安の女性達と江戸の女性との比較をしている。平安時代が後に乱れてしまうのは、当時の男達が女々しかったためであり、それに比べて江戸の男達は武士として世の中をきちんと治めていて、幕府もしっかりしている。その上、平安の男達は女をつくって外まわりをしていたが、今はその習慣もなく、夫は必ず帰ってくる。しかも物資は豊富であり、安心した生活が出来る。平安に比べて江戸は格段に優れているというのである。ただ、彼女には一つ分からない。それはどうして当時の女性達のような良い歌人がでてこないかということなのだ。彼女はそれを日記に記している。
    この二人の女性以外にも、多くの女性達が文学に遊ぼうとした。特に、上流武家の女性達にとって、和歌と文章は必須の教養だった。下級武士の女性達はそうした教養を身に着けて、上流武士の家庭に奉公し、それを出世の糸口にするのだ。それは自分の出世だけでなく、兄や弟はもちろん、一族全体に関わる“家”の出世につながっていた。
    樋口一葉の文学修行も、そうした江戸の武家女性の教養として始められたのであるが、明治維新は結果として、彼女には苦労を、文学史にはすばらしい作品をもたらしてくれた。
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