如儡子

  • 2020.07.04 Saturday
  • 19:56
如儡子(読み)にょらいし

◆?―1674じょらいし如儡子 じょらいし如儡子 にょらいし
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

[生]?
[没]明暦1(1655)頃
江戸時代前期の仮名草子作者。「じょらいし」とも読む。 70歳くらいで没。本名未詳。最上家の浪人湯村式部,あるいは池田家に仕えた斎藤意伝ともいう。武心士峰,雪朝庵と号す。仮名草子『可笑記』にみずから記すところによると,母とともに江戸に出て仕官を志したが成功せず,不遇のうちに生涯を終えたらしい。ほかに仮名草子『百八町記』 (5巻,1655成立,64刊) ,和歌注釈『百人一首鈔』 (4巻) がある。
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◆デジタル大辞泉の解説

[1603?〜1674]江戸前期の仮名草子作者。本名、斎藤親盛。山形最上家に仕えたが浪人となり、江戸で医者を業とし、著作の筆をとった。著「可笑記」「百八町記」など。にょらいし。
⇒じょらいし(如儡子)
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◆百科事典マイペディアの解説

江戸初期の仮名草子作者。本名斎藤親盛。意伝と号す。山形最上家の家臣の子として酒田に生まれる。江戸に出て儒者となるが,のち医を業とする。《従然草》にならった社会批判の短文集《可笑記》,また《百八町記》を書いた。
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◆デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

1603?−1674 江戸時代前期の仮名草子作者。
慶長8年?生まれ。もと出羽(でわ)山形藩主最上家の臣。主家改易(かいえき)により浪人となり,諸国を放浪。江戸で医を業とするかたわら,仮名草子を執筆した。延宝2年3月8日死去。72歳?姓は斎藤。名は親盛。通称は清三郎。号は「じょらいし」ともよむ。別号に以(意)伝,雪朝庵士峰。著作に「可笑記」「百八町記」など。
⇒にょらいし
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◆朝日日本歴史人物事典の解説

没年:延宝2.3.8(1674.4.13)
生年:慶長8?(1603)
江戸時代の仮名草子作者。本名は斎藤清三郎親盛。意伝と号する。父斎藤盛広は出羽国山形藩最上家の家臣だったが,元和8(1622)年,家督相続をめぐる騒動のため藩は改易,浪人となる。親盛は江戸で医を業とする傍ら,当世批判の意を込めた『可笑記』(1642)を執筆。これに批評を加えたものに,浅井了意『可笑記評判』(1660)がある。万治2(1659)年,陸奥国二本松藩に仕官した長男秋盛に同行し,晩年はこの地で俳諧に遊んだ。著書にはほかに『百八町記』(写本)などがある。<参考文献>野間光辰『近世作家伝攷』
(樫澤葉子)

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◆世界大百科事典 第2版の解説

1603ころ‐74(慶長8ころ‐延宝2)
仮名草子作者。本名斎藤親盛。号は意伝。山形最上家の臣斎藤盛広の子として酒田で生まれた。1622年(元和8)最上家改易で浪人となった父に伴い祖父の旧地越後に転じ,のち江戸に出て,一時松平光仲(政?)家の儒者となるが,浪人して医を業とする。59年(万治2)子秋盛(ときもり)の出羽二本松仕官に伴って下る。才能あって不遇の境涯から,社会批判の書として《可笑記》(1642)を書き,また《百八町記》(1664ごろ)を書いている。
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◆大辞林 第三版の解説

⇒ にょらいし(如儡子)
(1603?〜1674) 仮名草子作者。斎藤氏。別号、以伝・雪朝庵士峰。山形の人。戦国武士的道徳観に立ち、江戸初期の政治・世相に対する痛烈な批判を仮名草子中に展開した。著「可笑記」「堪忍記」など。
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

江戸前期の仮名草子(かなぞうし)作者。「にょらいし」ともいう。本名斎藤親盛(ちかもり)、号意伝、雪朝庵士峯(せっちょうあんじほう)。父斎藤筑後守盛弘(ちくごのかみもりひろ)とともに山形最上(もがみ)家に仕え、1622年(元和8)最上家改易のため浪人。放浪中に父を亡くし、江戸に出て、豊田屋喜右衛門(とみたやきうえもん)などの町人に助けられ、右筆(ゆうひつ)や医者を業とし、その間著作の筆をとった。1659年(万治2)嫡男秋盛が二本松藩の丹羽光重(にわみつしげ)に召され、これとともに二本松に移住し、俳諧(はいかい)に遊ぶなどの晩年を送った。延宝(えんぽう)2年3月8日没。墓は二本松市松岡町、松岡寺。著作には仮名草子『可笑記(かしょうき)』(1642刊)、『百八町記』(1664刊)があり、そのほか『百人一首鈔(しょう)』『堪忍記』が写本で残されている。[田中 伸]
[参照項目] | 可笑記


『可笑記』


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精選版 日本国語大辞典の解説

江戸初期の仮名草子作者。東北地方出身の武士であったが浪人して江戸に出、晩年仏道に入り、承応・明暦年間(一六五二‐五八)七〇歳前後で没したと推定される。随筆風の著作「可笑記」は仮名草子の代表作。
⇒にょらいし(如儡子)
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◆世界大百科事典内の如儡子の言及

【可笑記】より
…仮名草子。如儡子(じよらいし)作。5巻。…

※「如儡子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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◆出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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斎藤 親盛(さいとう ちかもり、慶長8年(1603年) - 延宝2年3月8日(1674年4月13日))は、江戸時代前期の武士、文人・仮名草子作者。通称は清三郎。筆名如儡子(にょらいし)。幼名は清三郎、俗名斎藤以伝、法名武心士峯居士。墓は、福島県二本松市の松岡寺(臨済宗妙心寺派)。

概要

斎藤家初代光盛は、越後国、西山日光寺辺(現在の、新潟県東蒲原郡阿賀町払川)の出身と推測される。出羽の国(山形県)に移り、藤島城(山形県藤島町、現在は鶴岡市)の城代を務めたとされている。父は、斎藤家2代広盛。出羽山形藩最上氏家臣、母は東禅寺勝正の妹。清三郎は領内の酒田筑後町に生まれた。藩主の最上家親に近侍して、一字を賜り「親盛」と称した。元和8年(1622年)の最上氏の改易で浪人となり、父と共に、祖父光盛の出身地越後へ行くことになったが、父の急死で、母と共に越後へ行く。やがて江戸に出た。一時、西国大名に仕えたり医師をして生計をたてた。

その高い教養を生かして文学作品を執筆し、仮名草子の傑作『可笑記』で評価を得る。他に『百八町記』や俳諧作品、『砕玉抄』(百人一首の注釈書)がある。また、諸大名を批評した『堪忍記』もある。

万治3年(1660年)に長子の秋盛が陸奥二本松藩主の丹羽光重に仕官したことから、同地に移住して没した。

参考文献

『日本人名大辞典』、講談社、2001年
『朝日日本歴史人物事典』、朝日新聞社、1994年
『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』、深沢秋男、近世初期文芸研究会、2010年
『如儡子百人一首注釈の研究』、深沢秋男、和泉書院、2012年
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔1〕深沢秋男(『文学研究』67号 1988年6月)
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』4号 1988年12月 )
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔3〕深沢秋男(『文学研究如儡子

◆はてなキーワード
(一般)

【にょらいし】
如儡子(にょらいし)  

仮名草子作者。「如儡子」の読みは「にょらいし」が正しい。姓は斎藤、字は清三郎(せいざぶろう)、本名は親盛(ちかもり)、号は以伝、法名は武心士峯居士。慶長8年(1603)頃出生、延宝2年(1673)3月8日没。酒田(山形県)の筑後町に生れる。父の広盛は最上家親に仕え、川北三奉行の職にあった。清三郎も家親に仕え、主君から一字を賜り、親盛の名を許された。元和3年(1617)に主君・家親が急死し、最上家57万石は没収され、1万石になってしまう。最上家の後には酒井家が入ったが、広盛・親盛の父子は、酒井家に仕えず、浪人となる。浪人になった親子は、一時、祖父・光盛の出身地越後(新潟県)に行くが、間もなく父が急死し、親盛は、やがて江戸へ出る。江戸へでてから、ある大名の祐筆を務めたが長続きせず、再び浪人となる。やがて、医者となり、越後から妻子を呼び、細々と生計をたてる。万治3年(1660)に子の秋盛(ときもり)が二本松(福島県)の丹羽光重に仕えることになり、二本松へ移住する。晩年の約15年間は二本松で俳諧などを楽しみ、その生涯を閉じた。享年72歳か。亡骸は二本松の神龍山松岡寺(臨済宗妙心寺派)に葬られた。
如儡子・斎藤親盛は、18歳ころまでは、酒田の奉行の子として勉学に励み、主君・最上家親に側近く仕えたが、最上家転封の後は浪人となり、貧しい生活を送った。そのような厳しい生活の中でも、武士としての誇りをもって著作活動に励んだ。

【著作】

◎ 『可笑記』(かしょうき) 5巻5冊、寛永6年(1629)執筆開始、同19年(1642)11行本刊行。以後、12行本・無刊記本・絵入本と刊行され、近世初期を代表する仮名草子のベストセラーになった。『徒然草』や『甲陽軍鑑』を利用して著作した随筆的な仮名草子である。内容的には批判精神の横溢したもので、作者の思想や生き方がよく盛り込まれている。浅井了意はこの作品に批評を付加した『可笑記評判』を著し、以後、『続可笑記』『可笑記跡追』『新可笑記』『一休可笑記』『歎異抄可笑記』『後前可笑記』『前句付可笑記』『後可笑記』などの作品が、著された。

◎ 『砕玉鈔』(さいぎょくしょう) これは、『百人一首』の注釈書で、寛永18年(1641)頃には成立していたものと推測される。武蔵野美術大学図書館に原本が所蔵されており、書写年代も近世初期と推測され、著者の自筆本の可能性がある。内容的には、易しく『百人一首』を解説したものである。この原本を書写した諸本が多く伝わっている。

◎ 『堪忍記』(かんにんき) これは、近世初期の諸大名の石高や藩の内情を記し批評を付加したもので、成立は、正保2年(1645)頃と推測される。この種の類書の中では最も早い成立で、貴重な著作である。このような、膨大な全国の大名の情報が、浪人の著者に収集できるものではなく、如儡子は、ベースになる情報を、何らかの方法で入手し、それに批評を付け加えたものであろう。福井県立図書館の松平文庫本と内閣文庫・2本の3点が伝存している。

◎『百八町記』(ひゃくはっちょうき) 5巻5冊、明暦元年(1655)の序があり、寛文4年(1664)に京都の書肆中野道判から出版された。儒教・仏教・道教の三教一致を主張した著作である。一里三十六町、三里で百八町という書名の付け方である。内容的には仏教に重点がおかれていて、晩年は仏道(臨済宗)に帰依した著者をみる事ができる。
◎ その他、晩年の俳諧作品が多く遺されている。

【参考文献】

◎ 田中伸「『可笑記』の研究」(『仮名草子の研究』桜楓社、昭和49年)
◎ 野間光辰「如儡子系伝攷」(『近世作家伝攷』中央公論社、昭和60年)
◎ 深沢秋男「如儡子(斎藤親盛)調査報告(1・2・3・4・5)」(「文学研究」「近世初期文芸」昭和63年〜平成5年)
◎深沢秋男『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』(近世初期文芸研究会、平成22年)
◎深沢秋男『如儡子百人一首注釈の研究』(2012年3月20日、和泉書院発行)
◎「齋藤筑後守記念碑」が、山形県酒田市、上日枝神社境内に建立された(平成23年10月23日)。詳細は → http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html

■「斎藤親盛(如儡子)の研究」→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html

』68号 1988年12月 )
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔4〕 深沢秋男(『文学研究』70号 1989年12月 )
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔5〕深沢秋男(『文学研究』78号 1993年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔1〕深沢秋男(『近世初期文芸』27号、2010年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』28号、2011年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔3〕深沢秋男(『近世初期文芸』29号、2012年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔4〕深沢秋男(『近世初期文芸』30号、2013年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔5〕深沢秋男(『近世初期文芸』31号、2014年12月)
如儡子の祖父、斎藤家初代光盛の出自 深沢秋男(『近世初期文芸』35号、2018年12月)
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カテゴリ: 江戸時代の随筆家山形藩士二本松藩士1603年生1674年没

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●ウィキペディアは、誰かが立項、私が加筆。

●〔はてなキーワード〕 は私が立項・執筆した。ただし、このサイトは、現在は廃止されている。

●他の辞典類は、誤りが、少なからず含まれている。

2020年7月4日 深沢秋男







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