「田舎におはせば、言えり給へど・・・」

  • 2020.06.08 Monday
  • 07:08
「田舎におはせば、言えり給へど・・・」

私の『源氏物語』――夕顔の巻を中心に――

◆はじめに◆

五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのである。

夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。

夕顔は次の如く形象化されている。

「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかな を重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」

このように夕顔は描かれ、形象化されている。これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。

私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。

夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

◆本居宣長の『手枕』◆

宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。

宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・

「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。

さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。

この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。

私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。

秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。

「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉 る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写しとどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、  時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高きから、御むすめの御ため、しうねき性をあらはして、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりし など書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。

【後略】

★これは、、大学3年の時、秋山虔先生に提出したレポートである。




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  • 2020.09.22 Tuesday
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