田中伸先生の批評眼

  • 2020.03.28 Saturday
  • 07:50
●『井関隆子日記』がようやく刊行された。昭和53年(1978)〜昭和56年。全3巻。

●本が出来れば、お世話になった方々に献呈する。しかし、仮名草子研究に打ち込んで来た私には、仮名草子研究者以外の知り合いはなかった。当然、寄贈された方々も、畑違いの『日記』には、戸惑うばかりだったと思う。

●そんな中で、田中伸氏は違っていた。上巻刊行と同時に、全体を読み、励ましの御返事を下さった。その上、二松学舎大学の公開講座で取り上げて下さり、大学院でも講義・購読に採用して下さったのである。

●完結と同時に、次のような新刊紹介を執筆して下さった。

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新刊紹介 『井関隆子日記』    田中伸
              【『週刊読書人』第1402号、昭和56年10月12日】

 昭和五十年頃から深沢秋男氏は、この『井関隆子日記』(一名「天保日記」)全十二冊についての研究を次々と発表し、遂に今年六月その校注本をB6判三巻として完成した。この日記は近世女流日記文学の代表作として位置すべきものと私は思っているが、これをこうして適切な脚汪までそえて発表された事は、近世文学研究に携わる立場からしても誠に有難いことである。それは第一にこの日記が女性の筆になるものでありながら、実に広い視野をもち、流麗な雅文でそれを叙しているからである。

 作者隆子は、九段下四辻の東南角に屋敷を持つ旗本井関縫殿頭親経の義母に当り、文政九年(一八二六)に没した弥右衛門親興の未亡人である。日記は作者五十六才の天保十一年(一八四○)一月一日に始まり、十一年は四冊、十二〜十五年は各二冊宛からなり、日々の生活・年中行事・四季の変化・折々の見聞・感想・思い出咄・社会の出来事・風俗・政治の動き・文学学問のこと・和歌等々が、実に多岐に亘った内容である。天保十一の記事が他に比して多いのは、作者が意識して社会的風俗的記事を盛り込んだためと見られ、親経は二丸御留守居(二百五十俵)という閑職にあり、孫親賢は御小納戸衆(三百俵)で、家庭的にも平穏でまた後年のような政変も少ないための叙述の意図と見られる。その社会風俗には婦人の服装・髪形には絵までそえ、花見の様子、料理仕出しの事、町家のさま、下肥えのこと、眼力太夫の見せ物、煙草のことと多彩で、作者がどうして知ったかと思われるような吉原の遊女のことから地獄宿にまで至っている。品川の岡場所にもふれ、落語の『品川心中』の原話かと思われる咄も長々と語られる。特に現在「とんびに油げさらわれる」の俗諺を地で行く天気の良い日、野原で飛び集ってくる鳶に油揚を投げ上げて、これをとらせるという遊びの様が描かれてもいるのは面白い。

 しかも、これらはすべて擬古文ともいうべき雅文で綴られ、折々の四季の風物の描写と共に仲々の作と見られる和歌を折り込み、如何にも飾らない作者の感情が流れ、読む者を飽かせないのである。

 政治の動き、将軍家の様子などにもくわしく、天保十二年閏一月晦日の薨去と一般に伝えられる将軍家斉は、実はその閏一月七日の夕刻であったことなども判る。更に水野越前守の政策で林肥後・水野美濃・美濃部筑前の失脚や、矢部駿河が司召放しに逢い、伊勢桑名に連行せられ、四ケ月後には絶食して果てたことなど、坦々とした叙述の中に作者の批判の眼がしのばれる。特に印旛沼干拓事業に対し「水鳥」という怪異物語を創作して暗に強い批判を示している。更には遂に水野越前の失脚の際、水野の屋敷に町人下衆どもが集って石を打ちつけ門など打ちこわすなどの騒ぎなども描かれている。

 家族のことも、親経が御広敷用人(七百俵)になった喜び、広大院の使いで京都へ旅するを案じ、親賢が堅物射の競いで見事な腕を見せたことなど誠に楽しげに伝えている。

 僅かの枚数でその内容を伝えるのはむずかしいのであるが、隆子は真に近世末のインテリ女性というにふさわしく、いたずらに花鳥風月にのみ遊ぶという日記ではなく、この天保末の息吹きを脈々と伝える日記というべきで、これをあえて世に知らしめた深沢氏の努力は、今後の研究によって一層大きな成果を示すであろう。

(各B6、〔上〕四五九頁・〔中〕四五六頁・〔下〕三九六頁・各四五〇〇円・勉誠社)

(たなか・しん氏=二松学舎大学教授・日本近世文専攻)

◇ 写真は天保11年2月1日分にそえられた婦人の服装・髪形の絵――上巻から

見出し=天保の息吹きを脈々と伝える
    近世女流日記文学として位置すべき作品

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  • 2020.07.07 Tuesday
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