井関隆子の花見

  • 2020.03.25 Wednesday
  • 06:12
井関隆子の花見

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 今日ただいま桜は満開。なんとなく日本人は浮かれている。さかのぼって江戸の人々の花見やいかに。渡辺京二著「逝きし世の面影」平凡社ライブラリーという著書の第十一章風景とコスモスの中に、江戸の花見の様子が記されている。なかなか面白いので、ちょっと長いが取り上げて昔の花見の様子を覗いてみる。

 ―川添登によれば、江戸の桜花見の元祖は上野寛永寺で、寛文・延宝期(十七世紀後半)にはすでに鳴り物入りで酒宴が行われていたという。しかし一六七〇年代になると、鳴り物はご法度などとかなり規制が進んで、元文年間(一七三〇年代)には賑わいは飛鳥山へ移り、さらに寛文期(一八世紀末)には日暮里が栄え、天保期(一八三〇年代)には向島が全盛期を迎えた。「寛政の頃の花見は、たんにドンチャン騒ぎをするのではなく、歌・浄るり・おどり・俳諧・狂歌などをする、という、はなはだ文化的な花見となって」いた。日本橋から四キロの地点にある飛鳥山が桜の名所となったのは、将軍吉宗が享保五(一七二〇)年から六年にかけて、江戸城内の吹き上げ御所から、桜一二七〇本を移植させたからだという。「それまでの飛鳥山は、欅の多い単なる雑木山にすぎなかった」。吉宗が開いたのは飛鳥山だけではない。品川御殿山、隅田川堤、小金井堤などの桜の名所は皆彼が開いたのである。

 むろん花見に泥酔や喧嘩口論がつきものだった。オールコックが書いている。「江戸の日本人は四月いっぱい郊外の庭園や寺へピクニックに出かけるが、これは彼らの大きな楽しみのひとつである。男や女や子供の群れが一家ごとに野外の春を楽しむために木陰の道を列をなして進んでいるのを見かけることがある。……悲しいことには、このような牧歌的情景が、しばしば過度の飲食のためにだいなしにされている。男たちは野外の花のさわやかさを吸収するだけではあきたらず、酒を鯨飲する。この習慣が男だけに限られていればまだしもだが、実際は男だけに限られてばかりはいない。帰り道はこれらのこれらの酔っぱらいのためのけんのんである」。

 井関隆子も天保十一年三月の日記に、飛鳥山の花見のさいの出来事を伝聞してこう記している。「矢部の何がしとかや女子(おなご)など引きつれて詣でけるに、夕づけて庚申塚てふわたりを帰りくる時、酔いしれたる男(をのこ)どもの打つれたるが、女ども具したりと見るよりわざとゆきあたり、いさかいせんとする様なれば、みなかいけち(掻い消ち)逃げけるに、幼き子を下郎におわせたる、遅れて来けるを、酔人ども引きとらえていたくうちさいなみ、稚児ともに打ち殺しつべき様なれば、あるじ引き返してさまざま言和(いいなご)め、詫びけるをさらに聞入れず、刀ぬきつれて切かかりければ、せんなく立ち向かい打あふほどに、壱人をば切たふし、いま一人は手を負ひ皆逃失せたりとぞ」。隆子はこういう酔漢について、「遠き国々より出(いで)来て、国の守りなどに仕うる男」が、酔いしれたるひたぶる心に、男女の打ちまじり遊びありくを見て、すずろに妬ましく思ふより、……とかくしていさかいを求め、浅ましき事をば仕出」すのだと注釈しているが、これではオールコックが「彼らの飲酒癖やけんか癖は、ヨーロッパの北方民族にけっしてひけおとらず、飲むと最悪で、狂暴となる」というのも無理はないところだ。

 一方モースをはじめとして、祝祭や娯楽の場における日本人なマナーのよさを称賛している観察者は少なくない。シッドモアも明治十年代の向島の花見について、客たちのおどけぶりと陽気さを「全員が生まれつきの俳優、弁士、パントマイム役者なのだ」と評しながら、「こんなに酔っぱらいながらも、表現するのは喜悦と親愛の情だけで、いさかいや乱暴な振る舞いはない。野卑な言葉も聞かない」と述べている。いささか好意的に過ぎる見方かもしれないが、やはりこれは彼女の実感だったのである。それもこれも、古き日本人の一面だったのだとここでは言っておこう。―

 どうやらやら昔も今も花見風景にあまり変わりがないようである。
(完)

平成 28年 4月 1日                    DOKKOU著

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●今日、このような記事に出会った。隆子は、草花が大好きで、上野の花見や隅田川の桜の時期には、よく出かけている。当時の上野の桜の様子も詳しく書き留めている。今年は、新型ウイルスの影響で、規制されているが、今も花見の名所である。

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  • 2020.09.22 Tuesday
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