酒場で歴史を語る会

  • 2020.01.22 Wednesday
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酒場で歴史を語る会

井関隆子と新見正路の家

2009/10/07 22:27
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 『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』 の著者 深沢秋男 先生のブログ「fuakiの日記」に
   2009-09-11
「久し振りの九段坂」があり、写真が掲載されているので、今日も勝手に引用させていただくと、
●今日は、全集の編集会議があり、久し振りに九段坂へ行った。会議は3時からという事ゆえ、その前に、九段坂下の変貌振りを確認した。幕末の旗本の主婦、井関隆子が、60歳でこの世を去ってから165年が過ぎた。その彼女の屋敷跡を確認したわけである。
●変りました。私が、井関家の伝記調査をしてからでも、30年以上が経過している。その様子を、シカとカメラに収めて来た。
九段下の交差点の右下の角の「りそな銀行」の所に井関隆子の住んでいた屋敷があった。
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 『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』 が紹介する、日記を書いた井関隆子
 旗本の庄田家に生まれ、結婚後、離婚して実家に戻っていた隆子。
                            
 その再婚相手、井関親興は、道を挟んだ向かいの旗本、新見正勝の親戚、新見正峰の三男から井関家に養子に入っていたので、親興が亡くなったあとも、隆子は度々向かいの新見の家に出かけて、当主の新見正路(幕府側用人役職としても学者としても有能で膨大な書籍を持っていた。その蔵書印が下の物)の蔵書を見せて貰い意見交換したようである。
 その新見正路家は、安政大地震で壊滅したものか、転居したものか、地震後に発行された、安政3年1856年の切絵図では、既にこの年2月に設置が決まった塙保己一の「蕃書調所」の表記になっている。
現在の九段会館の駐車場と会館の場所である。深沢先生の写真付近を地図で示しておくと 下のようになる。
 ここで、私に疑問がわいてきた。
 井関親興やその子供の井関親経、孫の井関親賢、そして新見正路は、どこを通って、江戸城の表、中奥の、将軍側用人、側衆、広敷用人といった仕事場へ通勤していたのであろうか?
 今の武道館の入り口になっている、田安門からであろうか。可能性の高い清水門であろうか。間違っても不浄門とされた平川門ではないだろう。しかし、その先は、北詰門から天守台を廻って行ったのか?その先を知りたい、調べたいと思っている。 
 なお、新見正勝・正路の家は、旗本で神奈川戸塚の品濃村(現在の川上町・前田町・品濃町)領主であったので、横浜市戸塚区品濃町の品濃谷宿公園前に碑がある。
 この新見正路の養子が、三浦家からはいった新見正興で、のちに外国奉行となり神奈川奉行を兼ね、日米修好通商条約批准交換のアメリカ派遣正使に任命され、副使村垣範正、目付小栗忠順と、太平洋を横断、パナマ地峡を汽車で抜け、海路ワシントンに赴き批准交換を行う。大西洋・インド洋を航海して帰国して、側衆となるが、禁門の変ののち反動化した幕閣とあわず辞職したのであるが・・・・
 私が子供の頃、勝、福沢らの咸臨丸を従えて行った正使の新見正興ら一行の記念写真をみて、姿勢の良い美男子の格好いい若者だなあと思った記憶がある。幕末に写真機が登場して、坂本龍馬はじめ多くの肖像写真が残るが、格好いいお兄さんは、新見正興だけという印象であった。この人を正使に選んだ理由の一端かも知れないと思ったり、苗字が「新見」であるのも、初めて海外へ行く幕府役人の名前にピッタリだと、子供心に思っていた。
 姓は、はじめ「ニイミ」。のちに、徳川家康の命により、「シンミ」と呼ぶことになったという。

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●私は、井関隆子の屋敷を調査していて、江戸城には、入れる所には、何回も行って、事実を確認した。『井関隆子日記』の原稿の素読みも、江戸城の近くでしたこともあった。少しでも、現場の雰囲気を身に付けたかったのである。

●上梅林門、下梅林門、の実態も、現場に行って初めて納得した。太田道灌が植えたという梅は、今も、少しではあるが現存する。古典の本文の定着は、机の上だけでは、十分ではない。そのように、私は思っている。
2020年1月22日


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  • 2020.02.25 Tuesday
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