江戸城本丸全焼

  • 2020.01.19 Sunday
  • 08:13
●ネット上で、このようなサイトに出会った。2007年11月出した、私の『旗本夫人・・・』も参考にしているようだ。情報の普及は、『井関隆子の研究』2004年よりも、文春新書のような、本の方が、効果がある。出典は表示していないが、私の本からの情報だろう。

。。。。。。。。。。。。。。



天保年間の江戸城本丸全焼について
• 2011/04/06 08:55
• 質問No.6648035
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desster
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江戸城本丸は何回か火災に会っていますが、その中で、

天保年間の火災の日付が二通りあるようです。

(1)1844年6月25日(天保15年5月10日)

(2)1842年

広大院(ウィキペディア)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A4%A7%E9%99%A2

天保12年(1842年)に12代将軍・徳川家慶付き上臈・姉小路が食する天ぷら調理が原因で火事を起こし、本丸を全焼させてしまう。この火事で広大院は御末の奥女中におぶわれて吹上御殿に避難した。この火事は奥女中が数百人死亡するという大惨事となった。

-----------------

質問1. ネット上では、1842年、1844年とも数多く見られます。それぞれ、火事があったのでしょうか。それとも、1842年は1844年の間違いでしょうか。

質問2. もし、それぞれ火事があったのでしたら、1842年の日付を教えてください。

よろしくお願いします。回答は一部でもかまいません。
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• 2011/04/06 16:28
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bungetsu
ベストアンサー率 51% (834/1628)
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>(1)1844年6月25日(天保15年5月10日)、(2)1842年

まず回答から先に述べますと、天保12年(1842?1841)には火事は起きてはいません。

Wikiは、必ずしも専門家が書いている訳ではありませんので、間違いや勘違いがありますので、「参考程度」に読んでください。


>>天保12年(1842年)に12代将軍・徳川家慶付き上臈・姉小路が食する天ぷら調理が原因で火事を起こし、本丸を全焼させてしまう。この火事で広大院は御末の奥女中におぶわれて吹上御殿に避難した。この火事は奥女中が数百人死亡するという大惨事となった。

この広大院の避難については、「井関隆子日記」に、天保15年5月10日(新暦・6月25日)に起こった江戸城炎上がかなり詳細に記されています。
「井関隆子日記」の著者はあくまで旗本の老後家(ろう ごけ)であったが、同居していた義理の子息や孫が御城大奥詰の上級役人であり、またこの老後家とは大変関係が良好であり、城中の様子を詳しく伝えていたため、意外に知られていないような城中(特に大奥関係)の様子を正確に残してある貴重な資料でもある。

当時を描いた幕府の正史「続徳川実紀」ではわずか数行に満たない文章で書きとめられているにすぎない天保の炎上は、実はかなり深刻なものであった。

要約すると、

火災は、大雨の降る早朝に起こっている。このところ長雨続きで、誰も火災の心配などしていなかったのが運のつきで、夏の短夜の事でもあり、ぐっすりと寝静まっている大奥で火の手が上がった。
気づいた端女が大声を上げたが、大雨の音にかき消され、気付く者が少ない。

ようやく気付いた女中衆はパニック状態に陥り、ただただ泣き騒ぐのみで右往左往するばかり。大奥には、避難経路などの取り決めがなかった。

大奥御広敷詰の役人(隆子の子息らもいる)がようやく気付き、女中衆に詳細を訪ねるが、誰も耳を貸さずに泣き騒ぐのみ。
出入り口の門なども、番する者が逃げてしまっているため開ける事が出来ず、やむなく役人が木槌などで壊し、そこに集まっていた女中達は、その破れ目から辛くも難を逃れた。

長雨が続いていたにも拘らず、本丸御殿の火の回りは非常に速かった。 火難を逃れた女中達や役人は、大雨の中を泥に足を取られながら吹上の庭へと非難した。

隆子の子息井関親経(いせき ちかつね)は、大御台所広大院が担当であったため、逃げ惑う女中衆から広大院の安否を聞き出そうとするが、誰も耳を貸そうとはしない。
大奥詰の役人といっても、大奥の中まで入る事はほとんどないため、大奥内がどうなっているか分からず、ようやく顔見知りの表使女中を捉まえ、広大院の居室へと案内させた。大騒ぎの渦中ではあるが、大納戸から乗り物(上流の使用する駕籠は「乗り物」と呼ぶ)を出して、女中衆に担がせて退避した。
将軍家慶の養女精姫君は、女中が背負って脱出したとある。

火が回るスピードが、大雨の中とは思えないほど速く、しかも大奥から見れば出口にあたる一の側の局付近から出火したため、脱出できなかった女中衆が大勢亡くなった。

翌日になっても火の勢いは衰えなかった。 以前、西の丸が炎上した折には、多くの町火消しを動員して消火に当たったそうだが、盗難が非常に多かったため、今回は自然に消えるのを待つという方針を、陣頭指揮にあたっていた老中・土井利位が打ち出していたためである。

ところが、火勢が衰えない上に風まで出てきたため、西の丸御殿までが危うくなってきたというので、富士見櫓や蓮池櫓などを火消しが打ち壊してようやく難を逃れた。

こうして、本丸御殿は残らず全焼。 書類、調度、宝物はもちろん、蔵の金銀まで焼け、特に銀は溶けて流れてしまっていた。
奥女中達の亡骸は親類縁者に引き渡すことになったが、判別不可能になるまで焼けてしまったものが多く、上瓩琉簑里箸靴匿涜欧謀呂靴燭里端女であったという事もあったという。

火元は、広大院付き御年寄り・梅谷の管理下にあった端女の不始末という事になったらしい。水で消した炭を壺に入れて炭置きに置いたが、その炭の燠が燃え始めて周囲の炭俵に燃え移ったとされた。
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• 2011/04/06 12:21
• 回答No.1


jgk99
ベストアンサー率 40% (16/40)
5月10日の火災は、1844年6月25日の火災ですね。ただし、天保15年には改元がありましたから、普通は弘化元年(改元は12月2日)の火災と書かれますね。
さて、1842年の火災となると天保13年でしょうが、広台院が背負われて吹上に避難したとなると本丸炎上となります。
となれば、当然、年表に載る火災に該当するでしょうが、私の資料の中には見当たりませんでした。

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  • 2020.07.07 Tuesday
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