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    如儡子・斎藤親盛

    • 2019.10.15 Tuesday
    • 06:56
    如儡子・斎藤親盛

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    如儡子(にょらいし)    【はてなキーワード】

    仮名草子作者。「如儡子」の読みは「にょらいし」が正しい。姓は斎藤、字は清三郎(せいざぶろう)、本名は親盛(ちかもり)、号は以伝、法名は武心士峯居士。慶長8年(1603)頃出生、延宝2年(1673)3月8日没。酒田(山形県)の筑後町に生れる。父の広盛は最上家親に仕え、川北三奉行の職にあった。清三郎も家親に仕え、主君から一字を賜り、親盛の名を許された。元和3年(1617)に主君・家親が急死し、最上家57万石は没収され、1万石になってしまう。最上家の後には酒井家が入ったが、広盛・親盛の父子は、酒井家に仕えず、浪人となる。浪人になった親子は、一時、祖父・光盛の出身地越後(新潟県)に行くが、間もなく父が急死し、親盛は、やがて江戸へ出る。江戸へでてから、ある大名の祐筆を務めたが長続きせず、再び浪人となる。やがて、医者となり、越後から妻子を呼び、細々と生計をたてる。万治3年(1660)に子の秋盛(ときもり)が二本松(福島県)の丹羽光重に仕えることになり、二本松へ移住する。晩年の約15年間は二本松で俳諧などを楽しみ、その生涯を閉じた。享年72歳か。亡骸は二本松の神龍山松岡寺(臨済宗妙心寺派)に葬られた。
    如儡子・斎藤親盛は、18歳ころまでは、酒田の奉行の子として勉学に励み、主君・最上家親に側近く仕えたが、最上家転封の後は浪人となり、貧しい生活を送った。そのような厳しい生活の中でも、武士としての誇りをもって著作活動に励んだ。

    【著作】
    ◎ 『可笑記』(かしょうき) 5巻5冊、寛永6年(1629)執筆開始、同19年(1642)11行本刊行。以後、12行本・無刊記本・絵入本と刊行され、近世初期を代表する仮名草子のベストセラーになった。『徒然草』や『甲陽軍鑑』を利用して著作した随筆的な仮名草子である。内容的には批判精神の横溢したもので、作者の思想や生き方がよく盛り込まれている。浅井了意はこの作品に批評を付加した『可笑記評判』を著し、以後、『続可笑記』『可笑記跡追』『新可笑記』『一休可笑記』『歎異抄可笑記』『後前可笑記』『前句付可笑記』『後可笑記』などの作品が、著された。

    ◎ 『砕玉鈔』(さいぎょくしょう) これは、『百人一首』の注釈書で、寛永18年(1641)頃には成立していたものと推測される。武蔵野美術大学図書館に原本が所蔵されており、書写年代も近世初期と推測され、著者の自筆本の可能性がある。内容的には、易しく『百人一首』を解説したものである。この原本を書写した諸本が多く伝わっている。

    ◎ 『堪忍記』(かんにんき) これは、近世初期の諸大名の石高や藩の内情を記し批評を付加したもので、成立は、正保2年(1645)頃と推測される。この種の類書の中では最も早い成立で、貴重な著作である。このような、膨大な全国の大名の情報が、浪人の著者に収集できるものではなく、如儡子は、ベースになる情報を、何らかの方法で入手し、それに批評を付け加えたものであろう。福井県立図書館の松平文庫本と内閣文庫・2本の3点が伝存している。

    ◎『百八町記』(ひゃくはっちょうき) 5巻5冊、明暦元年(1655)の序があり、寛文4年(1664)に京都の書肆中野道判から出版された。儒教・仏教・道教の三教一致を主張した著作である。一里三十六町、三里で百八町という書名の付け方である。内容的には仏教に重点がおかれていて、晩年は仏道(臨済宗)に帰依した著者をみる事ができる。

    ◎ その他、晩年の俳諧作品が多く遺されている。

    【参考文献】
    ◎ 田中伸「『可笑記』の研究」(『仮名草子の研究』桜楓社、昭和49年)
    ◎ 野間光辰「如儡子系伝攷」(『近世作家伝攷』中央公論社、昭和60年)
    ◎ 深沢秋男「如儡子(斎藤親盛)調査報告(1・2・3・4・5)」(「文学研究」「近世初期文芸」昭和63年〜平成5年)
    ◎深沢秋男『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』(近世初期文芸研究会、平成22年)
    ◎深沢秋男『如儡子百人一首注釈の研究』(2012年3月20日、和泉書院発行)
    ◎「齋藤筑後守記念碑」が、山形県酒田市、上日枝神社境内に建立された(平成23年10月23日)。詳細は → http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html
    ■「斎藤親盛(如儡子)の研究」→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html

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    ●これは、私が立項し、執筆したものである。今となっては、修正すべき点があるが、パスワードを忘れてしまった。ま、いいか。

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    斎藤親盛

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


    斎藤 親盛(さいとう ちかもり、慶長8年(1603年) - 延宝2年3月8日(1674年4月13日))は、江戸時代前期の武士、文人・仮名草子作者。通称は清三郎。筆名如儡子(にょらいし)。俗名斎藤以伝、法名武心士峯居士。墓は、福島県二本松市の松岡寺(臨済宗妙心寺派)。

    概要

    父は出羽山形藩最上氏家臣の斎藤広盛、母は東禅寺勝正の妹。領内の酒田に生まれ、藩主の最上家親に近侍して、一字を賜り「親盛」と称した。元和8年(1622年)の最上氏の改易で浪人し、父と共に、祖父光盛の出身地越後へ行くが、父の急死で江戸に出た。一時、西国大名に仕えたり医師をして生計をたてた。
    その高い教養を生かした文学作品を執筆し、仮名草子の傑作『可笑記』で評価を得る。他に『百八町記』や俳諧作品、『砕玉抄』(百人一首の注釈書)がある。また、諸大名を批評した『堪忍記』もある。
    万治3年(1660年)に長子の秋盛が陸奥二本松藩主の丹羽光重に仕官したことから、同地に移住して没した。

    参考文献

    • 『日本人名大辞典』、講談社、2001年
    • 『朝日日本歴史人物事典』、朝日新聞社、1994年
    • 『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』、深沢秋男、近世初期文芸研究会、2010年
    • 『如儡子百人一首注釈の研究』、深沢秋男、和泉書院、2012年
    • 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔1〕深沢秋男(『文学研究』67号 1988年6月)
    • 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』4号 1988年12月 )
    • 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔3〕深沢秋男(『文学研究』68号 1988年12月 )
    • 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔4〕 深沢秋男(『文学研究』70号 1989年12月 )
    • 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔5〕深沢秋男(『文学研究』78号 1993年12月)
    • 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔1〕深沢秋男(『近世初期文芸』27号、2010年12月)
    • 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』28号、2011年12月)
    • 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔3〕深沢秋男(『近世初期文芸』29号、2012年12月)
    • 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔4〕深沢秋男(『近世初期文芸』30号、2013年12月)
    • 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔5〕深沢秋男(『近世初期文芸』31号、2014年12月)

    典拠管理
    • WorldCat Identities
    • VIAF: 313456972

    カテゴリ:

    • 江戸時代の随筆家
    • 山形藩士
    • 二本松藩士
    • 1603年生
    • 1674年没

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    ●これは、何方かが立項し、私が加筆修正したもの。

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