鹿島則孝の出自

  • 2019.08.13 Tuesday
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 鹿島則孝の出自

●平成5年(1993)6月、『鹿島則孝と『桜斎随筆』』を出した。その現物が手許に無くなった。念のため国会図書館の書誌を示す。

2019年8月13日 深沢秋男

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鹿島則孝と『桜斎随筆』  (国会図書館)
深沢秋男 編著

詳細情報
タイトル 鹿島則孝と『桜斎随筆』
著者 深沢秋男 編著

著者標目 深沢, 秋男, 1935-

出版地(国名コード) JP
出版地 所沢
出版社 深沢秋男
出版年月日等 1993.6
大きさ、容量等 63p ; 26cm
価格 非売品
JP番号 93068429
出版年(W3CDTF) 1993
件名(キーワード) 鹿島, 則孝, 1813-1892

NDLC HL31
NDC(8版) 172
対象利用者 一般
資料の種別 図書
言語(ISO639-2形式) jpn : 日本語

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●この時、市ヶ谷の、鹿島則孝の実家の調査をした。

鹿島則孝の生家の場所は、江戸牛込の逢坂の角で、牛込と市谷の堺、市谷船河原町だという。安政四年、尾張屋版の江戸切絵図を見ると、牛込御門から外壕に添って、市谷御門へ向かう途中の右手に逢坂があり、その角地に「筑紫帯刀」とある。また、この辺が「船河原町」で、その先が「同(市谷田町)三丁目」とあり、則孝の記述と合致する。ここが、則孝の実家・筑紫孝門の屋敷であろう。三千石の家柄であるため、屋敷も広い。この辺の街並は、現在もあまり変っておらず、中央線の飯田橋駅から市谷駅に向かって外堀通りを進むと、神楽坂の次に臾嶺坂(別名、若宮坂、行人坂、祐玄坂。切絵図には、シンサカとある)があり、次に逢坂がある。この辺が現在も市谷船河原町で、筑紫家の屋敷跡と思われる逢坂の角地は、現在、空き地になっていて、奥の方に東京理科大学の薬学部が建っている。

 則孝は、ここで生まれ、二十四歳までこの地で過ごした。則孝の父、筑紫孝門は、浦賀奉行・日光奉行等を勤め、采地三千石の旗本であった。旗本の総数約五千二百名、その内、三千石以上は約二百四十名に過ぎない(寛政年間。深井雅海氏『国史大辞典』に拠る)。筑紫家はかなり上位の家柄であった訳であるが、『桜斎随筆』巻四には、その則孝の実家の生活の様子が記録されている。

 生活用品の購入は、牛込寺町まで出かけていたが、文政の頃より、神楽坂に商家が出来たので、ここに、一日二回、買い物に使いを出したという。また、市谷田町へは一日おき、日本橋へは一か月に一度、買い物に行ったと記している。

 正月の年始の様子も伝えられている。父・孝門は、元日から連日、諸方面へ年始廻りに出かけ、年始の来客の応対は、母、兄が行い、則孝も面会する事があったという。また、その折の饗応の様、年賀状の事も書き留められている。

 さらに、筑紫家に仕える、家老、用人、給人、近習、中小性、老女、側女、次女、小間使、茶の間女、末の女などの給料についても詳細に記している。当時の旗本の生活の実例として参考になるものと思われる。

 則孝は、『桜斎随筆』巻二下において「五十一 大宮司 中古代々忌日」「五十二 三笠山墓碑」など、鹿島家の先祖代々の忌年、墓誌等を記録しているが、続いて「五十三 恭徳院様御棺槨御石碑之覚」として、父、孝門(恭徳院殿朝大夫前佐州刺吏泰翁良温大居士)の墓所、墓石等について記している。今は、則孝の父母、兄弟の忌年を引用するに止めたい。

「実方親族忌年月日

父 孝門 筑紫佐渡守 清弟霊神 天保九年戊戌六月十一日卒 享年六十四
母 貞子 青木氏 端玉媛霊神 弘化三年丙午五月十日 同六十九
兄 徳門 筑紫右近 后蓮水 厳鞆霊神 明治元年戊辰六月九日同七十一
同 義処 青木新五兵衛 后鶴山 実相院 万延元年庚申七月七日 同六十二
弟 正路 佐々木寛四郎 寛量院 明治元年戊辰六月十九日 同五十六
同 孝本 小倉氏 元通称貞之助 同七年甲戌六月三十日 同四十九年四ケ月
甥 礼門 筑紫主殿 右靱霊神 慶応二年丙寅六月廿二日 同五十三
筑紫家先塋   東京浅草区栄久町百八番地 永見寺〔禅宗宗洞〕
同       同府下北豊島郡地方今戸町拾七番地 永伝寺 同
同 〔裏方埋葬〕同牛込区横寺町三拾三番地 龍門寺 禅宗
青木家先塋   同浅草区神吉町四十七番地 幡随院 浄土宗
佐々木家先塋  同四ッ谷区南寺町三拾四番地 松巌寺 禅宗    」

 旗本の三男とはいえ、三千石の家柄でもあり、同じ武家の養子なら納得もゆくが、何故、則孝は神官の道を選んだのであろうか。鹿島神宮・大宮司家といえば、長い伝統と高い格式の家柄であり、その故であろうか。その理由について、則孝自身の書き残した文章がある。(『桜斎随筆』巻四の二)

 「弐 予が武家を厭ひ、神家に成たる原因は、実父の君、昌平坂学問所御用勤中ニ、寄合肝煎、内藤外記と云人と、学校上の事ニ付、議論せしに、父の勝利と成りしを、内藤不快ニ思ひ居たるが、同人は、浦賀奉行勤仕となりたり。父君も又、同役と成られたるが、先勤故、諸事内藤の、指引を被受たるが、此時に至り、先きの遺恨を含み、種々不都合の差図にて、甚迷惑被致、其後も、内藤の親族、水野美濃守〔御側御用取次〕の為めに、讒言せられ、青雲の妨害となりしを、目撃せし故、断然武門を廃せむと、決意の処、恰もよし、鹿島より養子の相談あるニ付、取極たるなり。」

 則孝の神官への転身には、実父・孝門の、同じ旗本・内藤外記との確執が大きく関わっていたようである。

 孝門と内藤は、昌平坂学問所に勤務の折、意見の対立があり、結果は孝門の主張が通ったが、内藤はこれを根にもち、やがて、浦賀奉行となった時、先役の立場を利用して、いやがらせをしたという。さらに、内藤外記は、親類の水野美濃守忠篤に働きかけ、水野の讒言によって、孝門は出世の道を阻まれたという。水野忠篤は、家斉の小納戸から小性、大坂町奉行などを勤め、文政四年五月に側衆となり、八千石を与えられていた。家斉に重用され、第一の側衆として、心のままに振る舞っていた。天保十一年、家斉が没すると、首席老中・水野忠邦は、家斉側近の三佞人を処分しているが、水野美濃はその一人である。孝門は天保九年に没しているので、ちょうど、水野美濃守が専横を極めた時代にあたる。正論を主張したが故に、出世の道を閉ざされた父の姿を、少年・青年時代の則孝は見ていた。「断然武門を廃せむ」という表現に、その時の則孝の強い意思が示されていると思う。

 鹿島則瓊が大宮司家の後継者として、筑紫荘三郎に白羽の矢を立てたのは、単に、三千石の幕臣の三男坊という事のみでは無かったであろう。その人品、学殖ともに吟味の上であったと思われる。則瓊も歌文を能くした人物であった。両者相通うものがあり、この縁組は結ばれたものと推測される。
 
「鹿島則孝と『桜斎随筆』」(平成5年6月25日発行。私家版)より

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