ある不動産業者の地名研究

  • 2019.08.12 Monday
  • 06:09
ある不動産業者の地名研究

●今日、〔ある不動産業者の地名由来雑学研究〕というサイトに出会った。牛久、竜ケ崎辺りの不動産会社のサイトらしいが、その雑学研究が、実に膨大で、驚いた。その中に、鹿島則孝に言及している部分がある。

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【はじめに】

   我々が「地名」などの話題にふれるとき・・・“誰もが無意識”に、その「固有名詞」の「発音」や「響き」、“その意味”を想像しながら、話や文脈全体を理解しようとしているのではないでしょうか。
   ・・・このことは“我々(ヒト)の脳構造”・・・とりわけ「言語中枢」と呼ばれる部位が、“左右二つに分割されているため”なのです。その一つは「音声」や「文字」などの「情報」を理解するための部分・・・云わば、受信アンテナ的な役割を担う部分です。・・・この隣に、もう一方の「音声」を使用する言語運動という形で(※つまりは、発声により)、「情報」を発信するための部分があり、主に“これら二つの部位が、互いに活発な遣り取りを行なうこと”によって、言語活動全体を成立させるという仕組みになっています。

   日本では、古くは奈良時代に編纂された『古事記』、『日本書紀』、『常陸風土記』などに記されて来たように・・・「地名の起源」についての探索や研究は、我々の関心を惹きつけてきました。・・・しかしながら、「日本の地名」についてのみに限定してみても、より普遍的な「語源解釈法」や、それが、いつ頃命名され、当時の人々に浸透していったかを特定することは、「地名学」や「言語学」、「考古学」、「民族学」、「文化人類学」などによる、様々なアプローチ方法はあるものの・・・なかなか、「こうだ!これにほぼ間違いない!」・・・と“断言出来る状況は稀なケース”であり、多くが未解明と云えるのでしょう。・・・これはこれで、“歴史ロマン”を掻き立てられるのものですが。
   “言葉の生きた化石”とも云われる「地名」の探求は、“古代語研究と同義となることが多い”ため、「発音」や「響き」を含むその「言葉」の「読み方」や「呼び方」、「地名」を、“同次元で扱う姿勢がより重要となる”のかも知れません。
   ・・・それにしても、私(筆者)自身を含め、多くの方々は、“地名そのもの”の「発音」や「響き」、“その意味が現代に至るまで受け継がれて来た”という事実や、“地域の歴史そのものの”に対して、「意味」や「メッセージ性」などを、何かの機会に見い出しているのではないでしょうか。
   ・・・そこで、こちらの関連ページではこの“意味・メッセージ性”を「キーワード」に・・・甚だ大雑把かも知れませんが・・・できるだけ、それぞれの時代順にポイントを踏まえながら記述していきたいと思います。

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     ※ 同年10月29日:「幕府」が・・・「鹿島社大宮司・塙大隅守(はなわおおすみのかみ:※鹿島則孝のこと、通称は荘三郎、主税之助とも、幕府旗本・筑紫〈佐渡守〉孝門の三男)」を「罷免」して、「押込(おしこめ:=押籠)」に処し・・・“其の子”である「出羽守(でわのかみ:※鹿島則文のこと、通称は布美麿、矗之輔とも、鹿島則孝の長男)」を、「逮流(たいる:※逮捕した後に遠島にすること)」に処す。“常野浪士騒擾の事”に「連座」するなり。【綱要】・・・押込(=押籠)とは、主に武士や庶民に対して適用され、自宅、或いは自室などの前に戸を立てて閉鎖(※いわゆる座敷牢のこと)し、一定期間における昼夜の出入りや通信などの一切を禁じて、謹慎及び幽閉する刑罰であり・・・江戸時代には、自由刑の一種として比較的軽い罪の場合に適用されたとのことです・・・が、大社の神官職にある者達であっても、当時の連座責任を追及されることとなって、時の幕府からは容赦されなかった様子も分かります。・・・しかしながら・・・ここで・・・当時の尊皇攘夷思想などについてを、更に深く掘り下げるために・・・(↓↓↓)

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      ・・・上記の塙大隅守こと鹿島則孝とは・・・筑紫孝門(ちくしたかかど:※通称は佐渡守)の三男として、1813年(文化10年)に江戸・牛込逢坂で生まれ・・・1837年(天保8年)12月6日に、鹿島社大宮司・鹿島則瓊(かしまのりよし)の婿養子となり・・・1843年(天保14年)には、水戸藩9代藩主・徳川斉昭に謁見・・・1858年(安政5年)11月6日に、鹿島社大宮司職を継ぎ・・・同年11月15日には、第14代征夷大将軍に内定されていた、当時の徳川慶福(※後の家茂)と謁見し・・・それから、ちょうど一月後の同年12月15日には、「将軍代替ノ礼」のためとして、正式に将軍となった徳川家茂と、再度の謁見をしています。・・・1862年(文久2年)には、禁裏から鹿島社への米の寄附があったため、その返礼等のために、長男である出羽守を、自身の代理として上京させてもおります。

      そして・・・本ページのように、「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」が起こる・・・と、1864年(元治元年)9月2日には、潮来勢が鹿島社に屯集して・・・“潮来勢が同月6日に、鹿島社を発とうとしていた矢先”・・・結果として・・・“これを追撃する幕府軍との遭遇戦”に見舞われることになって・・・この時、潮来勢と呼ばれた水戸藩士民達とともに、塙大隅守なども、幕府軍から一斉銃撃を浴びせられてしまいます。・・・この時の戦況については・・・“鹿島社の宮域に発砲され、その弾丸は霰(あられ)の如し”・・・とされ、また・・・“塙大隅守は、同月5日夜から鹿島社に宿直して、そこを警衛していたため、人的損害については事無きを得た”・・・ものの・・・“此の時、大舟津の一ノ鳥居が焼失した”・・・とも。

      ・・・ちなみに、塙大隅守の実父である筑紫孝門(※通称は佐渡守)とは、幕府の浦賀奉行や日光奉行などを歴任した武門家系の人であり、つまりは・・・当時の「幕臣」と云える人物です。・・・
      ・・・やがて・・・筑紫孝門(※通称は佐渡守)の子孫達の代になると・・・塙大隅守及び出羽守親子が、当時の政治的オピニオン・リーダーの一人とされる水戸藩9代藩主・徳川斉昭の影響を当然に受け、その後に水戸藩領地に隣接する鹿島社の大宮司職を、それぞれ継ぐこととなり・・・結局のところは・・・まず・・・筑紫孝門(※通称は佐渡守)の孫であって、塙大隅守の長男だった出羽守が・・・時の幕府から、“実父の大隅守よりも以前に、謹皇の志士達との濫(みだら)な交流や、神宮の祭典を変更をした事”を追及され・・・当時の「罪」に問われることとなって、1865年(慶應元年)7月には「揚屋入」とされ・・・翌1866年(慶應2年)5月24日に“八丈島へ配流される”のです・・・が・・・実父・塙大隅守は? と云えば、“当初は長男・出羽守と同罪とされて、この1865年(慶應元年)10月29日に「押込」を命じられる”・・・も、翌1866年(慶應2年)の2月には「放免」されております。・・・

      ・・・このことは、詰まるところ・・・当時の幕府は、“この親子の罪については、一旦は同罪”とした・・・ものの、“その罪の度合い”については・・・“長男のほうが、父と比べて、より重かった”と、後に結論付けた訳です。・・・この背景には・・・塙出羽守が、幼少時から「水戸学」を学んで育ったことや、“彼が21歳頃の1860年(万延元年)に、江戸の安井仲平(※号は息軒、儒学者)が開いた私塾の「三計塾(さんけいじゅく)」に学んだ経歴が大きく影響していた”・・・と考えられるのですが・・・やがて、この塙出羽守も、1869年(明治2年)5月1日には「赦免」されることとなって・・・同月28日には「帰京」し、翌6月13日には、鹿島へ「帰郷」しておりまして・・・実に・・・“遊学期間を除く約3年間を、八丈島など鹿島以外の土地で暮らした”ことになります。

      ・・・いずれにしても、“長男・出羽守の鹿島帰郷直後期に当たる同年7月1日”には、実父の塙大隅守が・・・鹿島社境内地に、学問所とされる「稽照館(けいしょうかん)」を開設しており・・・ちなみに、この「稽照」とは、『古事記』序文にある「古(いにしえ)を稽(かんが)ひ 今を照らす」から引用した名称です。・・・尚、この「稽照館」の初代校長を務めたのが、長男の塙出羽守であって・・・その講師陣は? と云えば、これも鹿島社の神官達が務めておりまして・・・「稽照館」では、『古事記』や『日本書紀』などの他にも、『令義解(りょうのぎげ)』や『日本外史(にほんがいし)』、『祝詞考(のりとこう)』、『春秋左氏伝』などの国学や、漢学古典の講義が行なわれ・・・長歌や短歌の創作なども、当時の生徒達への課題として与えられていたようです。・・・また、鹿島社領域内の子弟達だけが生徒として限られていた訳ではなく、“周辺の波崎(現茨城県神栖市)や潮来(現茨城県潮来市)などからも通学する者があった”・・・とも伝えられております。

      ・・・この後の1876年(明治9年)9月7日には、“実父・塙大隅守の隠居”に伴なって、長男・出羽守への家督相続がなされ、出羽守が正式に鹿島社大宮司職を継ぎます・・・が、1884年(明治17年)4月2日には、伊勢神宮の大宮司職に任じられることとなり、既に隠居していた実父・塙大隅守は勿論のこと、一家揃って伊勢へ移住することに。・・・ちなみに・・・“実父・塙大隅守については、晩年の15、6年間は平穏な暮らしが送れた”と推測出来ますが、1892年(明治25年)10月2日に、享年80で没しておられます。・・・しかし、“彼は生来、筆まめだった”らしく・・・その著書には、『桜斎随筆(おうさいずいひつ)』や『家茂将軍謁見記(いえもちしょうぐんえっけんき)』などがあって、“かなりの量の遺文”が伝えられております。

      ・・・尚、この塙大隅守が開設し、長男・出羽守が初代校長を務めた「稽照館」は・・・後の版籍奉還や、廃藩置県、神官神職制度の大改革、学制頒布など・・・明治の激動期に曝(さら)されることになり、従来より鹿島社が「神領」として治めていた2千石も奉還されることとなって、自然消滅的に「廃校」を迎えております。・・・詳細な記録が遺されていないため、いつの時点で廃止されたのか? については不明です・・・が、“廃校の後には、稽照館に務めた講師達の多くが、私塾を開いて、明治初期における地方教育の一端を担った”・・・と伝えられています。・・・しかしながら・・・当時の塙大隅守及び出羽守親子や講師達の多くが、そこまでして伝えたかった、或いは受け継ぐべきと考えていたのは、いったいどんな事柄だったのでしょうか?・・・単に・・・廃藩置県以前に水戸藩(水戸徳川家)が存続していた頃、単に優秀な人材が枯渇状態に陥ってしまったという悲劇的な状況を打開するための方策とされただけのことでしょうか?・・・いずれにしても、「水戸学」と呼ばれる特定の学風に限らず・・・様々な分野の研究や、継続的に行なわれていた教育方針が、当然に与えることになるであろう・・・当時の人々の気質や気風などを想像すれば・・・如何に重要であると考えていたか? については、ご理解頂けるかと。

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  • 2020.09.22 Tuesday
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