酒田市、上日枝神社

2019.01.13 Sunday

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    好奇心いっぱいこころ旅
    「余生を楽しく有意義に過ごす」という目的の為のお婆のブログです。

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    •●上日枝神社(酒田市)
    • 2017年03月19日 22:17
    • 【正式名称】日枝神社
    【所在地】山形県酒田市浜田1-10-27
    【祭神】大己貴神、大山咋神、胸肩仲津姫神
    • 【公式サイト】−

    【由緒】貞観17年(875)日吉大社(滋賀県大津市坂本)の分霊を勧請したのがはじまりとされます。

    当初は酒田港袖の浦に鎮座していましたが、後に亀ヶ崎城内に遷座し、寛永13年(1636)4月に山王堂町から遷座、当初は南に面していました。通称「上の山王さん」として広く市民に親しまれています。

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    齋藤筑後守記念碑があります。

    「齋藤筑後守記念碑
     近世初期の戦乱の時代、越後(新潟)から出羽(山形)庄内に移住して活躍した齋藤一族があった。初代光盛、二代広盛、三代親盛と庄内・酒田を中心に活躍した。 齋藤家初代光盛  越後の出身。出羽の国に移り、庄内の守護、武藤義氏に仕える。天正元年(一五七三)以後、藤島城代となり、多くの戦功をあげた。天正十年頃に三十二歳で没する。  二代広盛  又十郎、助左衛門、筑後守。最上義光の武将で、亀ケ崎城代の志村光安・光惟父子に仕え、三奉行の一人として活躍した。光惟が没した後、川北代官として志村氏の領地である川北地方の行政にあたった。齋藤助左衛門、齋藤筑後守の名で、年貢皆済状、棟札が多く伝えられている。酒田の筑後町は、齋藤筑後守の屋敷があった場所であるとも伝えられている。妻は東禅寺筑前守の弟、東禅寺右馬守の娘であると思われる。最上家は、元和三年(一六一七)に最上家親が急死し、家中の内紛もあって、同八年に最上五十七万石は近江一万石に転封となる。この時、広盛は最上家を辞して酒田を去る。長年住み慣れた筑後町を後に、妻子を連れて、鼠ケ関を越えて越後へ向かったものと推測される。しかし、広盛は、にわかに病んで、五十五年の生涯を閉じた。  三代親盛  仮名草子作者。清三郎、号は以伝、筆名・如儡子、法名・武心士峯居士。慶長八年(一六〇三)頃、酒田筑後町にて、広盛の長男として生まれる。幼少から最上家親に側近く仕え、主君から「親」の一字を賜り、「親盛」の名を許された。元和八年、最上家の改易と同時に、父広盛に従って主家を辞し、先祖の出身地・越後に赴くが、やがて江戸へ出て仮名草子作品などの執筆に励んだ。著作に『可笑記』(仮名草子)・『砕玉鈔』(百人一首注釈書)・『堪忍記』(諸大名の批評書)・『百八町記』(三教一致を説いたもの)などがあり、晩年、二本松で詠んだ俳諧も多く残されている。延宝二年(一六七四)三月八日没、享年七十二歳。二本松の松岡寺に葬られた。
     その後の齋藤家  四代秋盛が二本松藩主丹羽光重に召抱えられたため、万治三年(一六六〇)、一家は江戸から福島の二本松に移住した。以後、五代富盛、六代常盛、七代親盛、八代邦盛、九代英盛、十代徳盛と、代々二本松藩に仕えた。齋藤家の子孫は、第十三代豪盛氏、第十四代康盛氏まで絶える事なく続き、現在、齋藤家は山形県長井市に居住し、墓所は、二本松の松岡寺にある。

                 平成二十三年十月吉日
                 昭和女子大学名誉教授  深沢秋男 撰文
                 昭和女子大学講師    承 春先 謹書
                 齋藤家 第十三代    齋藤豪盛 建立 」
                                      2016年9月13日

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    ◆〔好奇心いっぱいこころ旅〕「余生を楽しく有意義に過ごす」という目的の為のお婆のブログです。◆

    というブログであるが、どの項目も、紹介する内容が実に丁寧で、写真もみごとである。
    ●平成23年(2011)に、酒田市の上日枝神社の境内に、〔齋藤筑後守記念碑〕を、齋藤家第13代豪盛氏が、多くの方々の御支援、御協力を頂いて建立した。その記念碑も、このブログは、丁寧に紹介している。このようにして、歴史の遺跡は、時間を超えて、後世へ伝えられたゆくのか、そう思うと、感謝、感激である。有難うございました。

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    2019.03.25 Monday

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