平林文雄先生

2019.01.08 Tuesday

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    平林文雄先生

    ■『同窓会会員名簿』(山梨県立身延高等学校、創立90周年記念版、平成25年)
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    ◆身中第20回卒業 (昭和22年3月)
    平林文雄 群馬県高崎市
            高崎商科大学名誉教授
    ◆身高第5回卒業 (昭和30年3月)  定時制
     深沢秋男 埼玉県所沢市
            昭和女子大学名誉教授
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    『平林文雄 略歴と研究業績目録・言葉』 発行
      平成26年3月31日  発行(A5判、20頁、平成26年3月31日発行、非
    売品)。

     目次
     平林文雄教授の御退職に寄せて  高崎商科大学 学長  淵上勇次郎
     平林文雄 略歴と研究業績目録
      〇職歴
      〇著書 〔1〕〜〔38〕
      〇辞書・事典・講座 〔1〕〜〔9〕
      〇論文 〔1〕〜〔154〕
     歳々年々人同じからず
     御指導御支援を賜った方々への感謝の辞
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    御指導御支援を賜った方々への感謝の辞

                            平 林 文 雄

     私は長野県松本市の郊外の地に生を享けた。従って故郷は長野県ということになる。しかし私かこの地に居住したのは小学校二年生の一学期までで、それ以後は父親の仕事揚が変るごとに家族は転居し、中部地方を中心に、関東・東北地方を転々することになり、長野県は私に取っては文字通り第一の故郷に終ることになる。
    小学校を六年間に五校も替ったが、その後半と旧制中学校の五年間の合せて九年間を山梨県の県南地方で過ごすことになり、多感なるべき青春前期を送った地域として、この地が私に取っては第二の故郷とも呼ぶべき大きな意味を持つ場所となった。
    旧制山梨県立身延中学校に入学。その一七〇名の同級生は陰に陽に私の今日あるを形成するに貢献してくれている。
    中学校五年間のうち、満一年間は太平洋戦争中の学徒勤労動員によって授業は中断されたが、それによって寮生のみならず、同級生全員が起居を共にすることになり、同じ情熱を以て事に当り、団結力は一層強固になった。
    当時の級友は今お一人ひとり思い起すことができる。既に幽冥界を異にする友も少なからずいる。それらの人々をも含めて、若林一夫(東大法、元仙台法務局長・公証人)、望月穣二(東大経、元三菱油化役員)、石田永知(早大文、劇作家・詩人・僧侶)、風間五郎(東京歯科大、歯科医師)、早川敬明(東洋大法、元山梨医大教務部長・国立中央青年の家名誉所員)、望月秀臣(早大法、元日本開発銀行)、向後昭三(芝浦工大、川崎市役所下水道局)、羽田辰男(中大法、検事、弁護士)等の諸君とは、青春時代の自学自習、互助互譲の校風の影響によるものか、それとも気質的に惹き合うものがあってか、大いに啓発し合い、現在に至るもなお親密な交友関係が続く。  (中略)   
     岡崎義恵、佐藤喜代治、北住敏夫、峯岸義秋諸先生の御薫陶の下に、大学及び大学院に学び、ようやくに研究者の道を歩むことになり、仙台周辺での生活も九年に及び、仙台はまた私の第三の故郷とも呼ぶべき懐しい土地となった。
       (中略)
    就職により上京。東海大学での同僚では、村瀬敏夫(国文学・東海大学名誉教授)、青柳晃一(英文学・元教養学部長・東京大学名誉教授)、谷嶋喬四郎(哲学・東京大学名誉教授)、高岡和夫(独文学・千葉大学に転出後早世)の諸氏が同日の出講日で、講義終了後は打ち揃って渋谷のトリスバーに会合して気炎をあげた。 (中略) 
    東京での生活も九年に達した時、前記早川敬明君(深沢注=身延中の同級生)の友情溢れる斡旋によって新設の国立木更津工業高等専門学校に赴任、そこでの十三年間の勤務中、五年間学生主事として学園紛争盛期に学生諸君と親密に交流すると共に、校長村上成一先生の御指導の下、鶴見勉(国文学・哲学)、若林明(独語・哲学)、植田紳治(土木工学)等の俊秀な同僚との切磋琢磨によって、教育者としてまた研究者として多くの研磨を得た。
     その高専で知り得た知友としで森田喜郎氏を逸し得ぬ。氏は学生主事としての私の多忙な講義を埋めるために兼任講師として出講して頂いたのであるが、その関係から氏の恩師重友毅先生の主宰された研究会に毎月出席させて頂くことになり、小澤良衛、笠間愛子、高橋俊夫、深沢秋男、田中宏諸氏の優れた研究者と研鎖を共にすることになった。
    その中でも深沢秋男氏は私の旧制中学の後輩であったという奇縁もあり、氏が昭和女子大学短期大学部に移られて後に、機会あってお手伝することがあった。氏の近世文学における『井関隆子日記』の発掘は特筆すべき功績である。  (中略)
     木更津が第四の故郷ともなるべき頃になった昭和五十五年、群馬県が女子大学を開設することになり、招聘されて群馬県に移った。(中略)
     県立女子大に勤務中に兼任講師として出講を乞われた大学は五校。群馬大学では教育学部で「文章表現」を一年、群馬工業高等専門学校では「国語」を二年、群馬女子短期大学では九年に亘って、「国語学概説」「国語史」「国語法」「音韻論」「国語学演習」等多数の科目を担当した。新島学園女子短期大学では、八年間「国語学」を講じた。
    最後に昭和六十三年、高崎商科短期大学が設立され、「国語表現法」の担当を依頼された。私は快くお引き受けすると同時に、当時の理事長森本公生先生を当時の佐藤学園高等学校にお訪ねしてお話を承る機会を持った。その折の先生の信念の披歴に感動した私は、以後先生に私淑し、その理想実現のために少しでも御尽力できればと願うに至った。
     県立女子大学の定年を一年後に控えた折、高崎商科短期大学が新学科を増設することになり、その学科長としで就任を要請された。定年を全うすることが勤務校に対する義務でもあり、また責任でもあると考えていた私は、躊躇する
    ところ全くなしとはし難いが、かねてその創設とともに兼任講師として勤めさせて頂き、理事長初め事務局長、事務局の方々の誠意を充分に理解していた私は、この学園こそ有終の美を飾る最後の職場と思い定め、即座にお受けする
    ことを決意して、その旨勤務先に御了承を乞うた。幸い当局も快く御応諾下さり、私の就任は実現した。現在の顧問森本公生先生、理事長森本純生先生の御懇情け感謝の極みである。山崎旭学長の御精励、碓井彊副学長の御助力、淵上勇次郎教務部長の御厚情等、恵まれた境遇の下、学園の四年制高崎商科大学への転換も順調に推移し、二〇〇一年四月に開学した。学長には碓井彊氏が、学部長には淵上勇次郎氏が就任された。(以下略)
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    ●平林文雄先生は、昭和3年生まれである。長野県にお生まれになって、山梨県立身延中学を卒業、東北大学大学院修了。東海大学、木更津高専、群馬県立女子大学、高崎商科大学に勤務。高崎商科大学名誉教授。
    ●著書=38点。辞書・事典・講座=9点。雑誌論文=154点。木更津工業高等専門学校時代に、重友毅先生主宰の日本文学研究会に参加され、私は平林先生の御指導を賜った。
    ●平林先生は長野県松本市のお生まれであるが、父上の職場の関係で、山梨県立身延中学の卒業である。私は、新制の身延高校の卒業であるから、平林先生の後輩に当たる。後輩ではあるが、身延中学と身延高校では、雲泥の差があり、私は後輩などと、一度も思ったことが無い。
    ●私が、昭和女子大学の国語国文学科の学科長の時、国語学の非常勤の先生に欠員が生じ、平林先生に御無理をお願いしたことがある。新年度の新規採用の資格審査委員会の席上、松本副学長から、深沢さん、平林先生は、大変な業績の方ですね。よく、このような素晴らしい先生にお願い出来ましたね。とお褒めのお言葉を賜った。この事は、今も感謝している。
    ●現在のように、公募して教員採用をするのとは異なり、当時は、学科長の人脈で候補者を何人か提出し、審査の結果、適任者を採用していた。学科長にとっては、学会との関係が大切だったのである。

    「ふるさと」

    ●平成23年(2011年)8月、平林文雄先生から、エッセイ「私にとって「ふるさと」とは」というコピーを送って頂いた。先生には、日本文学研究会で多くの御指導を頂き、感謝している。
    ●平林先生の「ふるさと」を拝読し、先生の大変な人生を知らされ、感激もし、感動もした。先生は、長野県の上高地にお生れになった。小学校時代の成績は抜群。しかし、父上の職業柄、住居を転々と移す。東京・山梨(身延中学)・仙台(高等学校・東北大学・同大学院)・東京(大学勤務)・千葉(高専勤務)・高崎(大学勤務)と居を転じられ、それぞれの所が「ふるさと」の意味をもつと回想しておられる。
    ●私にとっての「ふるさと」は、甲斐の身延であり、身延山久遠寺の末寺・慈照寺が菩提寺で、御先祖様のお墓があった。しかし、余りお参りをしない不孝者である。如儡子の松岡寺、井関隆子の喜運寺・昌清寺、鈴木重嶺の全龍寺にはお参りするが、慈照寺には御無沙汰のみである。昭和女子大学時代に、山梨出身の保坂都先生に「ふるさと」を大切にしなさいヨ、と注意されたのが、忘れられない。

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    2019.01.20 Sunday

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