昭和女子大学図書館所蔵 〔桜山文庫〕・〔翠園文庫〕

2018.11.11 Sunday

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    昭和女子大学図書館所蔵、〔桜山文庫〕・〔翠園文庫〕

    ●昭和女子大学図書館には、現在、23のコレクションが所蔵されている。昨日、その全貌が、アーカイブスで公開されたことを知った。この内、〔桜山文庫〕と〔翠園文庫〕は、私が関与したものである。しかし、この2つの文庫が所蔵されるまでには、多くの方々の、御指導、御配慮があって、初めて実現したのである。この2つの文庫に関しては、過日、このブログに紹介したが、折も折であるので、補綴し、再録したいと思う。
    ★なお、ここに記す、冊数などは、私の記録に基づくものであり、昭和女子大学図書館の正式なものではない。

    〔桜山文庫〕

    ●鹿島則幸氏から、桜山文庫一括譲渡の件を依頼されたのは、昭和59年9月(1984)のことである。桜山文庫は、鹿島神宮に隣接する大宮司家、鹿島家の屋敷(5300余坪)の中に建てられた、大谷石の書庫に保管されていた。
    ●この譲渡に際し、蔵書の評価に関しては、長年交際のある、神田の一誠堂書店の酒井宇吉氏に依頼されたという。また、譲渡先については、私に一任すると申された。さあ、大変である。そのような大事業が私にできるのか。

    ●桜山文庫は、鹿島則文のコレクションであるが、則文の二男・鹿島敏夫氏は、『先考略年譜稿』で、

     「……性、書ヲ愛スル人に過ギ、公暇手書ヲ舎カズ。用ヲ節シ費ヲ省キ、書ヲ求メテ息マズ、飢ル者ノ食ヲ求ムルガ如シ。経史、小説、高尚卑近ヲ問ハズ。晩年、家ニ蓄財ナキモ、珍籍奇冊三万冊。人之ヲ云ヘバ、曰ク、妓ヲ聘シ酒ヲ飲ムハ世ノ通例ナリ。予、飲ヲ解セズ。書ハ予ガ妓ナリ、予ガ酒ナリト。」

    と、記されている。今回の対象となるのは、主として国文関係のもので、一誠堂書店へ移送する折に、大きなリンゴ箱に入れて、119箱であったとのこと。およそ1万冊弱と私は予測した。則文が生涯をかけて収集したものであり、量も少なくはない。また、その評価額もかなりのものになるであろう。内心では、1億円弱と予測した。
    ●私にとっては、一世一代の大仕事である。譲渡先は、私の勤務先の昭和女子大学を第一とし、次に、鹿島則幸氏の母校・国学院大学、私の母校・法政大学、国会図書館、国文学研究資料館などを考えた。この間、朝倉治彦氏、島本昌一氏、杉本圭三郎氏、渡辺守邦氏、中村幸彦氏等の御助言を頂きなから、慎重に事を進めた。
    ●酒井氏によると、量も多いので、場合によっては、分売もやむを得ないのではないか、との事であったので、一日、神田の一誠堂書店へお伺いして、分売は極力回避して、「桜山文庫」の名を遺したい旨、懇請した。幸い、酒井社長もこれを諒とされた。
    ●この間、私は昭和女子大学の関係者に、一括購入の申請書を提出した。私は、昭和女子大学に移籍して2年目の講師の身分であった。諸事、大きな壁があったのは当然である。
    ●昭和59年10月11日付で、
    〔「桜山文庫」一括購入に関する御願い〕なる書類を、学科長の原田親貞先生を通して、学長・理事長の人見楠郎先生に提出した。人見先生からは、国文科、日本文学科、の全教員で検討する様にとの御指示があった。
    ●昭和60年11月20日前後
    国文科と日本文学科の科会で、全教員に提案、御説明をした。日本文学科の、ある教員からは「大したものが無い」、という厳しい意見も出された(全体の内容を確認せずに、どうしてお分かりか)が、おおむね、一括購入には賛成であった。
    ●昭和61年7月5日付で、
    〔「桜山文庫」一括購入に関する御願い〕を学長宛に提出した。提出者は、
    日本文学科科長 尾崎□殃
    国文学科科長  原田親貞
    国文学科講師  深沢秋男
    であった。この時点で、一誠堂書店の酒井卯吉氏の評価額も出ていた。
    現存書目874点、合計5683冊、評価額0000万円。
    ●これとは、別に、国文学科長 原田親貞先生から、昭和女子大学理事長 人見楠郎先生宛に、〔「桜山文庫」一括購入に関する件〕が、7月18日付で提出された。
    ●これより前の、昭和61年6月、第一次の評価額が出されたが、酒井氏の評価は、実に誠実なものであると思われた。ただし、これは、3か月以内に一括購入が条件であるとのこと。早速、昭和女子大の関係者に検討を依頼した。契約が成立しない場合、第二、第三の図書館に連絡しなければならなかった。幸い、昭和女子大で購入する事に決定した。
    ●私は、酒井氏の指示に従って、昭和61年9月5日付で、「物品供給契約書」を作成した。

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    物品供給契約書

    供給すべき物品  桜山文庫旧蔵本(874点、5704冊)
    代金       00000000円(手数料 0000000円を含む)
    発注者      学校法人 昭和女子大学
    供給者      合名会社 一誠堂書店

    上記の発注者と供給者の間において、上記の代金によって上記の物品の供給をするものとする。
    第1条、供給者は発注者に対し、上記物品の供給をするものとする。
    第2条、供給すべき物品、「桜山文庫旧蔵本」の明細は別紙の通りとする。
    第3条、物品は昭和女子大学附属図書館に納入するものとする。
    第4条、物品の納入期限は昭和61年9月20日とする。
    第5条 代金の請求書は昭和女子大学附属図書館に送付するものとする。
    第6条 代金は昭和61年10月末日までに支払うものとする。
    第7条 物品の受け渡しは両者立ち会いのもとに行うものどする。
    第8条 ここに定める以外の条件に関しては両者協議して定めるものとする。
    第9条 上記契約を証するため、契約書は2通を作成し、発注者・供給者各1通を所
    持するものとする。
                      昭和61年9月5日
    発注者   東京都世田谷区太子堂1−7    学校法人 昭和女子大学
                     理事長  人見楠郎
    供給者   東京都千代田区神田神保町1−7  合名会社 一誠堂書店
                    代表社員  酒井宇吉

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ●昭和61年9月17日 第1次受け渡し完了
    当日は、図書館の青柳館長以下、全職員が出勤、一誠堂書店のトラックが到着して、1点1点、チェックして、一旦、未使用中の館長室へ保管した。その夜、関東港業株式会社によって、燻蒸作業が行われた。作業は一昼夜を要するため、図書館からは、青柳館長が立ち会って下さった。
    ●燻蒸作業が終了した後、図書館の貴重書庫へ移管され、順次、整理して保管された。
    ●昭和62年3月29日 第2次購入
    春雨物語、雨月物語、古事記伝、井関隆子日記、忠義水滸伝、等35点 購入。
    その後、第三次の評価、受け渡しが行われ、昭和62年末には、桜山文庫の一括譲渡は、ほぼ完了した。
    ●昭和62年11月8日、鹿島則幸氏は、昭和女子大学へおいで下さった。臨時の書架に保管されている桜山文庫を御覧になり、大変満足の御様子であった。御帰宅の後、

     「……おかげ様で桜山文庫本の縁付き先も確認出来、しゅうと・しゅうとめの皆様にもお引きあわせ下さいまして有難うございました。よい方がたに見守られ、文庫本もよろこんでおる事と存じます。ここに至る迄になる長い間、お仲人役をおつとめ下さいました貴方様に改めて心から、お礼申し上げます。……」

    と、礼状を下さった。これで、半永久的に「桜山文庫」が伝存されると思うと、この一件に御助言、御協力下さった皆様方に、心からの感謝を申し上げずにおられなかった。
    そうして、約1億円の大仕事を仕上げたことに、誇りをもった。思えば、誠文堂新光社の辞典部で仕上げた辞典の初版の総経費も約1億円だった。私は、貧乏研究者であるが、生涯に1億円の大仕事を、2回したことになる。

    ●桜山文庫の内、漢籍の「二十二史」は水府名徳会彰考館文庫に、鹿島神宮関係の史料は茨城県立歴史館に、そして、国文関係は昭和女子大学に、それぞれ分散されたが、この様に一括保存されることになった事は幸いである。その資料を真に研究しようとする研究者に、広く閲覧して頂く、これは鹿島則幸氏のお考えでもあった。昭和女子大学の桜山文庫も整理が一段落し、やがて学外の研究者にも利用して頂けるようになるものと思う。
    ●なお、則文の蔵書印「桜山文庫」の丸印は、黄楊の彫りの深い立派なものであるが、記念にと昭和女子大学に寄贈された。
    さらに、鹿島氏は、桜山文庫一括購入の謝札にと、秋田雨雀関係の書簡・82通をも御寄贈くださった。これに関しては、大塚豊子氏の研究「秋田雨雀の書簡(1・2・3)」が発表されている(『学苑』649号・651号・659号、平成6年1月、3月、11月)。

    ■「桜山文庫」の現状

     鹿島則文の収集した桜山文庫は「珍籍奇冊三万冊」(鹿島敏夫氏『先考略年譜稿』)と言われている。これらの蔵書が、その後、どのように分割され、現在、伝えられているか、整理してみると、以下の通りである。

    1、茨城県立歴史館寄託 鹿島則幸家文書
    『鹿島郡鹿島町 鹿島則幸家文書目録』(平成元年3月31日、茨城県立歴史館発行)によれば、鹿島神宮関係の史料、1403点が、昭和54年4月に鹿島則幸氏から茨城県立歴史館に寄託されたという。これらの史料は、鹿島家累代のもので、中には「桜山文庫」の蔵書印が押されたものもあるというので、鹿島則文の関係書も含まれているものと推測される。
    2、漢籍の『二十二史』
     水戸の水府明徳会彰考館文庫へ寄贈。
    3、伊勢関係書
     伊勢神宮へ移管。
    4、鹿島家関係書
     鹿島家所蔵(鹿島則幸氏・鹿島則良氏)。
    5、昭和女子大学所蔵「桜山文庫」国文学関係
     第1次、874点、5704冊。第2次、33点、403冊。合計、907点、6107冊。これに、第1次のリスト以外の、虫食本等の数百冊が加わって最終的には約7千冊になった。
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    鹿島則文
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』   より抜粋
    鹿島 則文(かしま のりぶみ、天保10年1月13日(1839年2月26日) - 明治34年(1901年)10月10日)は、幕末・明治時代の神職。
    鹿島神宮大宮司であった鹿島則孝の長男として生まれる。通称は布美麿、矗之輔。号は桜宇。儒書を安井息軒に学び、また、自ら皇典を究め国事に奔走、文久3年(1863年)に鹿島に文武館を創設したが、1865年(慶応元年)、その思想や行動により幕府に忌まれ八丈島に流される。1869年(明治2年)赦免、神領会所(鹿島神領の役場)が廃止されるのに伴ってその建物を学問所「稽照館」とした。1873年(明治6年)鹿島神宮大宮司、1884年(明治17年)神宮大宮司に任じられ、祭儀の復興、林崎文庫の整備、神宮皇學館(皇學館大学の前身)の拡充、『古事類苑』の出版などに尽力した。1898年(明治31年)、内宮炎上の責を負い辞職し帰郷。1901年(明治34年)10月10日、63歳で病没。茨城県鹿島郡鹿島町三笠墓地に葬る。
    参考文献
    • 鹿島町史第五巻(1962年)
    • 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)
    • 鹿島敏夫『先考略年譜稿』鹿島則良氏蔵。
    • 海野正造『佐原喜三郎と鹿島則文』昭和52年6月1日,柳翠史料館。
    • 葛西重雄・吉田貫三『増補改訂 八丈流人銘々伝』昭和50年5月20日,第一書房。
    • 大山地山『常総古今の学と術と人』昭和51年11月25日(復刻),水戸学研究会。
    • 鹿島則幸「桜山文庫について」(『郷土文化』第18号,昭和52年3月31日)茨城県郷土文化研究会。
    • 深沢秋男「鹿島則文と桜山文庫」,『井関隆子日記』中巻,昭和55年8月30日勉誠社。
    • 深沢秋男『神宮々司拝命記』,平成10年7月25日,私家版。



    〔翠園文庫〕

    ●私は、昭和48年から56年にかけて、近世末期の旗本女性の日記の校注をしていた。『井関隆子日記』である。この日記の中に、佐渡の歌人・蔵田茂樹との交流の様子がかなり詳しく出てくる。隆子は、天保14年1月晦日の条で、自分の創作『神代のいましめ』を茂樹に書写して贈ったと記している。この書写本が佐渡に伝存しているか否か調査したが未詳であった。
    ●しかし、学習院大学図書館の雕虫居写本の中に『迦美世能伊末志米』が収録されている事がわかり、早速、閲覧調査してみると、その巻末に、
    「明治十七年十二月三十一日自薄晩至初更写歌集底本鈴木氏翠園叢書之一也 市谷書院」
    とあった。
    ●底本が鈴木氏の「翠園叢書」である事は判明したが、「翠園叢書」は『国書総目録』によれば、国会図書館に一冊を所蔵するのみで、これには収録されていない。
    ●このような状態で数年が経過した。昭和51年12月号『国語と国文学』の雑誌要目の中に、松本誠氏の鈴木重嶺に関する論文を発見、初めて松本先生にお会いすることができた。関東短期大学で松本先生の電話番号を教えてもらい、先生のお宅に電話して、お願いの要件を伝えて、自由が丘のモンブランで、初めてお会いすることができた。当時は、現在とは異なり、プライバシーの問題が今ほど厳しくなく、電話番号も教えてくれたが、情報の検索は、ネットが、今ほど進んでおらず、印刷物の調査に限られていた。

    ●実は、松本誠先生は鈴木重嶺の直系の御子孫であり、最後の佐渡奉行であった重嶺の旧蔵書を全て所蔵しておられた。待望の『翠園叢書』全68巻67冊も閲覧させて頂くことができた。
    ●井関隆子の『神代のいましめ』がこの叢書に収録されたのは、蔵田茂樹の子の茂時が佐渡奉行の鈴木重嶺に献上したからであった。この『翠園叢書』には、他にも隆子の作品が収録されており、以後も松本先生には大変お世話になっていた。
    ●国語学者の先生は、生粋の江戸っ子で、あらゆる振る舞いが粋だった。森銑三先生の三古会にも連れて行って頂いた。ところが、世は無常。

    ●平成7年(1995)1月13日、松本誠先生は、東海産業短期大学の研究室で急逝されてしまったのである。私は、突然の事で途方にくれた。先生とは、三古会や東京掃苔会を通しても、交流があったし、さらに、先生が編纂執筆中の『同音異義語辞典』(勉誠社)に関しても相談を受けていた。法要も済んだ頃、奥様の栄子氏から、先生の蔵書の処置に関して相談された。先生には、長い間、身に余る御厚情を賜っていた関係もあり、蔵書の整理をお引き受けした。

    ●松本家蔵書・鈴木重嶺関係資料の整理
     平成7年12月27日(1995)

     冬休みに入った12月27日、奥沢の御自宅へ伺った。300坪のお宅は、街中でありながら、車の騒音も響かない閑静な所であった。道路側は小高くなっていて、大きな木が茂り、夏休みなどには、先生が木々の手入れをすると仰っていたことが思い出される。
     奥様は、先生御他界の後、家の中を整理して、ゴミゴミした物は古物商に渡したものもあると仰っていた。私は、大きな日本家屋の1階と2階の各部屋に置かれた蔵書を全部整理して、3つに大別した。

     1、一般書。
     2、松本先生の著書をはじめ、国語学関係のもの。
     3、鈴木重嶺関係資料。

     これらの蔵書の処置に関しては、先生のお子様とも十分に相談して処置すべきであると申し上げた。
    1、一般書 区立図書館などに寄贈することも一案であるが、現在、図書館もスペースの関係で引き受けられないのが現状である。従って、必要なものの他は古書籍商に売却するのがよい。

    2、松本先生の著書・国語学関係 必要部数を保存し、後は古書籍商へ売却する。

    3、鈴木重嶺関係資料 文化史的に考えても価値が高いので、慎重に処理する。これも、神田の専門の古書籍商に売却するのも1つの方法である。信頼できる古書籍商を介すれば、適正に評価され、最も必要とする読者の手に渡り、活用される可能性がある。ただし、鈴木重嶺の名前を後世に伝えたい場合は、歴史博物館・国会図書館・大学図書館等に一括寄贈して、半永久的に保存する方法もある。

     このように申し上げ、神田の古書籍商の何店かの名前と電話番号を差し上げた。ただ、ここで、最も重要な事は、今は亡き、松本誠先生が喜ばれると思われる処置をする、ということである、と付言した。
     奥様は、即座に、お金は要らないので、何とか重嶺さんの名前を後世へ伝えたい、と申された。さらに、続けて、先生の昭和女子大学に寄贈したいと思うが如何でしょうか、と申される。検討してみましょう、とお答えした。
     美味しい夕食を御馳走になり、松本先生のお宅を辞去した。年末の寒い夜道を奥沢駅へ向かいながら、重嶺関係資料の処理の方法を思案した。

    ●鈴木重嶺(翠園)関係資料、昭和女子大学図書館へ寄贈
     平成8年2月20日(1996)
     『翠園叢書』全68冊、『翠園雑録』全23冊を始め、鈴木重嶺の自筆本が多い。このように貴重な蔵書の処理は慎重に進める必要がある。昭和女子大学図書館・館長の青柳武先生に寄贈を引き受けて下さるか否かを検討して頂いた。その結果、図書館の承諾を得た。私は、寄贈して頂くに当たって、次のような条件の覚書を作成し、松本栄子氏と昭和女子大学図書館に提案した。

       鈴木重嶺関係資料に関する覚書

    1、昭和女子大学は、寄贈された「鈴木重嶺関係資料」を一括永久保存し、松本家の要望があった場合は、優先的に閲覧して頂けるように配慮する。
    2、昭和女子大学は、「鈴木重嶺関係資料」が寄贈された折、その概略を雑誌等に発表して、その所在を明らかにする(深沢秋男が担当)。
    3、昭和女子大学は、今後、鈴木重嶺関係資料が古書店等に出た場合、事情の許す範囲で購入し、本資料の充実に努める。
    4、昭和女子大学は、国会図書館等に所蔵されている、鈴木重嶺の著作を複写して収集し、資料の充実に務める。
    5、「鈴木重嶺関係資料」を活用し、歌人・鈴木重嶺の研究を推進する。
                       平成8年2月20日 

     この提案は、昭和女子大学図書館(館長・青柳武先生)及び松本栄子氏の御了承を頂いたので、今後の処理に関して、図書館と相談して進行した。

    ●平成8年2月20日(1996)
     昭和女子大学図書館の責任者2人と深沢の3名で、奥沢の松本栄子氏のお宅へ伺い、鈴木重嶺関係資料を受領し、無事に図書館へ移管した。
     松本家の玄関を入って、直ぐ左手にある応接間には、鈴木重嶺の油絵の肖像画が掛けてあった。奥様は、この肖像画以外の重嶺関係資料は全て寄贈して下さった。このような、御配慮は、そうそう有ることではないだろう。私は、心から感謝して、松本先生のお宅を辞去した。

    ●平成8年9月5日・6日(1996)
    「鈴木重嶺関係資料」を図書館から深沢研究室に移動して、目録作成をする。研究室に泊り込みで、資料から離れる事無くリストの作成を行う。全80点の資料を内容別に大別し、原資料には鉛筆で通し番号を書き込み、添付紙片に到るまで全ての略書誌をノートにメモし、原稿は直接ワープロで入力した。
     その調査結果は、平成10年1月1日発行の、昭和女子大学『学苑』第694号に発表した。
     なお、昭和女子大学図書館では、この度の鈴木重嶺関係資料が、松本栄子氏から寄贈されたのを機会に「翠園文庫」を新設して、今後、これらの資料を保管し、さらに充実を図ることになった。

    ●鈴木重嶺の肖像画 
    昭和女子大学の重嶺の関係資料は、平成8年7月16日、御子孫の松本栄子氏から、全て本学へ寄贈された。ただ1点、重嶺の油絵の肖像画は、仏壇のある部屋に掛けてあり、これは毎日お線香を上げながら拝むと申され、寄贈リストから除外された。
    ●しかし、平成16年2月19日、この肖像画も寄贈された。この肖像画も頂く事になったので、私は画家の「川久保正名」について調査した。小杉放庵記念日光美術館の田中正史氏や東京文化財研究所の山梨絵美子氏の御教示によって、この画家の概略は判明し、この肖像画は重嶺70歳頃のものと推測された。
    ●山梨絵美子氏の助言もあり、貴重な存在であることが判ったので、図書館では、特別予算を計上して、この油彩画を文化財補修の専門家に依頼して補修を済ませ、大切に保管している。

    ●平成9年11月26日(1997)
     鈴木重嶺百回忌 全龍寺。重嶺は、明治31年11月26日、85歳で没した。その百回忌法要が、新大久保の菩提寺・全龍寺で行われた。松本家からは、松本栄子氏、御子息・松本昭氏夫妻、お孫さんの暁氏などが参列。深沢も参列させて頂き、鈴木重嶺関係資料を昭和女子大学図書館で永久保存する事になった経緯を、重嶺の霊前に報告した。

    ●〔松本誠〕 の名刺1枚の背後には、このような事実が存在する。しかし、このような事は、時間と共に消失し、やがて歴史の上には、〔翠園文庫〕が、昭和女子大学図書館の書庫に在る、という事が残るのみだろう。記録は大切であるが、歴史とはそんなものである。 【平成30年10月20日】
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    ●翠園文庫の概略
     昭和女子大学図書館所蔵の「翠園文庫」は、最後の佐渡奉行・歌人、鈴木重嶺のコレクションである。重嶺直系の子孫で、国語学者・松本誠氏の旧蔵である。平成7年に松本氏が急逝され、平成9年に松本栄子氏から寄贈された資料を中心に、その後、数次に亘って、古書店から購入したものである。
    1、松本栄子氏寄贈分(平成8年7月16日)
     翠園叢書 全68巻・67冊など、80点で、重嶺自筆のものや、重嶺他界の折の会葬人名簿など貴重な資料で、この文庫の中核となっている。
    2、第1次購入分(平成10年)
     翠園詠草、翠園遺稿、など42点。
    3、第2次購入分(平成11年)
     翠園詠草、月奈美集、など170点。
    4、細田賢氏寄贈、(平成21年)
     読書抄禄、年々詠藻、など45点。
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    2018.11.14 Wednesday

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