450坪 → 660余坪

2018.01.21 Sunday

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    450坪 → 660余坪 井関隆子の実家
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    第73回  九段下界隈 その2 
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    九段下角の「りそな銀行」のところには、江戸幕府御用人の井関家があり、その奥方・井関隆子が当時の武家生活を日記に残しています。 興味深いことは、徳川家の日光詣の際には入念に予行演習に狩り出されたこと、高齢者といえども同行義務があり、このため葬儀道具も行列に続いたこと等、記されています。井関家の九段の土地は350坪、大京町の実家は450坪の広さです。隣家のクルミの木が邪魔なので伐るように催促する時、歌を一首送ってすぐ解決したと書かれています。又、息子が幕府の命で京都へ旅立つ時、九段坂を供等と共に行く後姿を見ていたとあります。
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    ●〔千代田区観光協会〕のサイトでは、井関隆子の実家庄田家の屋敷は、450坪だという。この坪数はどこから持ってきたのだろうか。実は、660余坪であった。
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    「庄田安議 延宝五丁巳年三月十七日於四谷表大番町屋敷六百六拾坪余納領仕候」
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    『庄田家系譜・正本』には、このようにある。『井関隆子日記』の記述からみても、これが正しい。

    ●隆子が四谷の実家を訪ねた時、当時、跡取りが不身持ちで、築地の本家に預けられていた。家は老人が留守番をしていたが、600余坪の屋敷は荒れ放題で、隆子は悲しむ。しかし、彼女は、ただ、悲しみ沈むのみの女性ではなかった。その荒廃した、我が家を見て、人の世の哀れさ、栄枯盛衰の思いを、しみじみと記し留める力量を持っていたのである。これは、並みの人間では、出来ることではない。
    ●この条が、平成23年度の、京都大学の入試に出題された。参考までに、その問題を掲げる。
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    〔三〕次の文は、江戸時代の武家の女性が記したものである。これを読んで、後の問に答えよ。(五〇点)
     ふるさとの荒れたる様を見て、昔の人の嘆きつる歌共、いと多かる。そはいみじかりつる都の年経てあらずなりぬる様、はた己が住めりし里など、いつしか異やうに変はれるを見ては、おのづからあはれ催すべかめり。己が生まれつる所は、四つ屋といひて、公人などいふかひなきものの彼是住みわたりつれど、かやぶき板屋などむねむねしからず。大方田舎めきよろぼひたる家ども打ちまじれり。一とせ如月のつごもりばかり、此わたりを行きかひしけるついでに、入りて見けるに、昔すめりし家のあとは草むらとなりぬ。そこはかとなく分け入るに、しかすがに庭とおぼしきわたりは植木など枯れ残り敷石所々にあり。いたく苔むしたる井筒に立ちより見れば、水のみ昔にかはらず澄めり。かの「あるじ顔なる」と詠めりしもことわりにて、はやくのことさへ思ひ出でらる。古くおぼえし木どもみだりがはしう繁りあひ、はた垣のもとに並植ゑたる桜の木ども、かたへは枯れてむらむらに残れるが、折知り顔に色めきたれど、花もてはやす人もなかめるを、誰見よとてかと思ふに、おもほえずうち嘆かれぬ。此花の木どもはそのかみ母屋に向かひたれば、親はらから打ちつどひ春毎に、盃とりつつ打ち興じもてはやしつるを、今は其世の人独りだに残らず、ただ我のみたちおくれて、昔の春の夢語りを、さらに語らふ友もなし。
      こととはぬ花とはおもへどいにしへをとはまくほしき庭ざくら哉
     奥の方は少しくだりて、片山かけたる坂をゆくに、父君の愛でて植ゑつると聞きおきたる、梅の木どもの大きなる、かたへは朽ちなどしつれど、若葉の色いと清気にて、花の盛りには雪とのみ見渡されにしも、ただ今の心地してすずろに物がなし。
                       (『井関隆子日記』より)
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