新藤透氏の快著『図書館と江戸時代の人びと』

2017.08.23 Wednesday

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    ●新藤透氏の『図書館と江戸時代の人びと』を一読したが、教えられる点が多い。殊に、紅葉山文庫に関しては、興味深いことがある。歴代の書物奉行一覧があり、その中の、庄田金之助安明は、実は、井関隆子の甥である。また、昌平坂学問所で学んだ、久米邦武のエピソードも興味深い。実は、私は、目黒の久米邸にあった、久米邦武の書庫を閲覧している。それは、邦武のお孫さんの久米晴子氏の御好意によるものである。

    新藤氏は、第三章第二節、昌平坂学問所と付属文庫の条で、久米邦武について次の如く記している。
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    久米邦武の教育観
     藩校や昌平坂学問所の教育は、会読を中心とした自学自習が基本です。学問とは他人から強制されてイヤイヤ行うものではなく、自ら進んで行うべきもの、との認識を久米は生涯持ち続けていました。その点を端的に示すエピソードが『回顧録』に紹介されています。
     子息の桂一郎は、当時の義務教育だった小学校を卒業すると、「学問は自発的に思い立って学ばなければならないものだ」という久米の信念から上級学校へ進学させてもらえませんでした。
     桂一郎が二一歳になると、「フランスに行って絵画の勉強がしたい」というので留学を許可したまでは良かったのですが、帰国後、「お前は半分西洋人になった」といって一緒に住むことを拒否してしまいました。大正六年(一九一七)に久米の友人だった大隈重信の仲介によって、ようやく父と子は同居しました。ちなみに桂一郎は、後年著名な洋画家となり、現在は東京都品川区上大崎にある久米美術館にその作品の多くが所蔵されています。
     久米の行った行為は、今日から見ればいささか問題かもしれませんが、単純に子供への愛情がなかったというわけではなく、「学問とは自学自習」という江戸時代の教育観から出たものだったといえるでしょう。しかし、明治という新しい時代の教育観とは少しズレてしまっていたようです。
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    ●私は学生時代、建築会社、佐藤秀工務店でアルバイトをしていた。この会社は、木造建築では一流の会社で、私の義父は、この会社の棟梁だった。宮大工で、千駄ヶ谷の徳川家の葵会館の解体工事も手掛けた。そんな関係で、目黒駅前の久米邸の工事の時、久米氏の奥様に大変お世話になったのである。
    ●私は卒論で、仮名草子の『可笑記』を選んだ。この作品の本文は、『徳川文芸類聚』『近代日本文学大系』に収録されていたが、いずれの叢書もセットでは、古書店で高額だった。久米様に、お茶を頂きながら、そんな話をしたところ、家の書庫を御覧なさい、その本があったら、お貸ししましょう、と申された。日を改めて、そのお蔵に入れて頂いた。膨大な蔵書である。ほぼ1日、書庫の中で、蔵書を閲覧させて頂いた。結果的には、2つの叢書は探し出せなかったけれど、この御配慮が、大変なことであると、感謝、感激を胸にして辞去した。
    ●それからは、毎日、大学図書館と上野の国立国会図書館へ通って、本文の書写をした。書写完了、この御報告を奥様に出した。その手紙の末尾に、もしや、久米邦武と御関係がありますか? と尋ねた。御返事に、私の祖父です、とあった。何と、私は、あの、久米邦武の書庫を、心行くまで閲覧させて頂いたのである。
    ●当時の久米邸は、広大な敷地で、樹木に覆われていて、敷地の中には、母屋の外に、何軒もの建物があった。その中の一軒を、奥様は、息子の書斎です、と申された。御子息は、東大で学んでおられる由。私と同年輩だと思った。
    ●後年、昭和女子大に勤務していた頃、目黒の久米美術館をお訪ねした。私のお世話になった、久米晴子様は、長年館長を務めておられたが、1年前に御他界なされ、現在は、ドイツ大使の御子息の奥様が館長だと知らされた。
    ●私が法政の学生の頃、東大で学んでおられた御子息、それは、日本の外交官で、ドイツ大使もなされた、久米邦貞氏ではないか、そのように推測している。それにしても、甲斐の貧乏学生が、歴史上に名を残すような、方々の御厚意を頂いたものと、今、感謝の念がこみ上げてくる。

    ■久米邦武
     ウィキペディア より